40-4  絶対なる真理12  阻害するものを打ち破る天命

40-4  絶対なる真理12  阻害するものを打ち破る天命
『生命とはいうものは何でもできる力を持っています。自分に固定観念さえなければ。固定観念を打ち破るというのが私の天命、生き方です。』(2014/11/24)
 本来神なる存在が神らしからぬ様相を呈してしまう。そこには神性顕現を阻害する要因がある。たとえそれが哲学的には実在ではないにせよ、一度その存在を認めないわけにはいかない。この引用では、それは「固定観念」と呼ばれる。また、その要因は多様に表現される。一部を列挙する。自我意識、否定的思考、否定的感情想念、否定的信念、否定的言葉、原罪意識、低次元意識レベルの常識等々である。これらは、いずれも究極の真理、絶対なる真理の両方を否定する。
 『輪廻のカルマとは、人間は不完全で罪深く汚れているものであるという認識そのものにほかなりません。』(95-05)と言われるように、カルマに実体はない。輪廻の始まりは、誤認識に過ぎない。認識とは、実体ではない。それは誤った観念にすぎない。誤認識から生じた行為も同様である。それは修正可能なものである。外なる神の許可なくして赦されない“罪”などというものはない。また、観念の過ちを責め立てる外なる神などどこにもいない。人間の罪を問題にする神もいない。神はすべてを赦しておられるだけである。
 「実体はない。赦されている」とは言うものの、難しいのが自分の固定観念、常識を払拭することである。あまりに自明のことなのだが、実は自分の思い込みに過ぎない。自明のことのように思えるだけに、疑問すら抱かない。そのため自分自身が神であると思う人は極めて少ないのである。このあたりが究極の真理の認識の難しさである。
 『自らの否定的思考、感情想念エネルギーの周波数を変えることは、そんなに難しいことではない。自らに何度も何度もよいことのみを言い聞かせるのである。そして言い聞かせることを習慣にするのである。』(07-04)
 阻害要因は実体がない。光に対する闇のようなものである。光あれば、闇はない。阻害要因を気にするより、真理を認め、言い聞かせて、体現する意志を表明しつづければいいのである。「我即神也」を宣言し、神性顕現が自分の天命であると宣言しつづければいいのである。自分に神らしさがなかろうと、神性の迸りがなかろうと、それとは関係なく、現象界に肉体を持ったまま神の姿を顕現した自己像を夢見つづければいいのである。宣言しつづければいいのである。自分だけではない。人類に対してもそう思うのである。人類一人一人が神とは程遠いと感られようと、平和の予兆すら感じられないかも知れないが、それとは関係なく、人類一人一人が神であり、人類世界が平和である姿を夢見つづければいいのである。
 この夢は見果てぬ夢ではない。この夢は、神の世界では成就している現実なのである。我々の本心はその事実を知っているのである。この事実は究極の真理である。それを夢見ることによって、完全平和の世界が現象化することが絶対なる真理なのである。神人の天命とは、この絶対なる真理を成就することに他ならない。
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40-3  絶対なる真理11 因果律と果因説

40-3  絶対なる真理11 因果律と果因説
 絶対なる真理という枠組みの中では、因果律は相対的なものでしかない。つまり、前々回(40-1)見たように、因果律は変更可能なものなのである。その道は「天の法則」(03-06)「宇宙神の法則」(07-07)とも呼ばれた。同じテーマは「自己探求」(01-08)というタイトルの法話でも語られる。
 『自己探求が完全に為されていたならば、人類一人一人はみな、前生の因縁におけるカルマを自らの信念によってカットすることが出来るのである。』
 繰り返し語られるように、因縁因果の法則より絶対なる真理、つまり自由意志と選択―決断―決行の力の方が強いのである。起こってしまったことは必然なのだが、これから何が起こる起こらないは自由意志によって選択可能なのである。そう自分に言い聞かせても、意に染まぬ事が起こってくるならば、「必然の消えてゆく姿」として受け止めてゆく。しかし、未来のことは自分の自由意志と選択の力で、自から創造してゆくのである。その根底になるのは、自己探求が出来ているか否かである。
『自己探求が完全に為された人は、無限なる叡智、無限なる能力、無限なる直観を高め上げ、引き出し、“我即神也”の真理により問題を解決し、しかも、不滅なる無限なる生命を人類に示すことになる。そして、人類に対して、本来の輝かしい姿、我即神也の真理の生き方を見せるのである。』
 釈尊は因果律を十二因縁として説かれた。十二因縁では、「無明すなわち真理の忘却から始まって生・老死が生まれる」と説かれる。無知を第一原因とする輪廻転生が生じているという教えである。起こったことの必然性と自己責任のところが強調されて、因果律は人知では超えられない宿命論として解釈されてきた。十二因縁は、無明がなくなれば、すなわち真理を悟れば、生・老死は生じないという理も説かれる。しかし、この部分は完全な悟りを得るまでは無縁のように解釈されてしまった。この忘れ去られた重要なポイントに光を当てたのが果因説である。果因説は完全な悟り(我即神也)を得なくても、(我即神也の)自己探求を深めつつ、今の瞬間、我即神也の立場で「絶対の真理」の実践=現実世界の創造に臨むというものである。
 果因説は「我即神也」の究極の真理を縦軸に、「絶対の真理」を横軸にした縦横十字交差の中心に神人が立ち、光一元の未来を描いてゆく生き方である。「我即神也」は創造の原点であり、『創造の目的』(01-04)なのである。神なる自己の姿は、宇宙神の天地創造と同時に完成されて、成就している。この原点を創造の目的として、結果として意識してゆくことによって神性をこの現象世界に顕現してゆく。これが神人の天命、生き方である。
また、それは「空即是色」の生き方である。“今の瞬間”、この生き方を選択できるのである。悟って、空になってから「空即是色」が始まるのではない。因縁因果を完済してから、果因説が可能になるのでもない。「消えてゆく姿」を実践しながらも、神性顕現の道を選択することは万人に開かれた道である。

40-2 絶対なる真理10  意識と言霊

40-2 絶対なる真理10  意識と言霊
 前回見たように、崇高な意識を強化するものとして、祈り、印、言霊がある。これらの実践は「絶対なる真理」を正しく機能させるためのものである。この「絶対なる真理」には、「人類即創造者也」という側面がある。
人類は神そのものである。『神とは創造主のことである』(01-04)。しかし、人類の創造は神の意図するものではなかった。『人類はみな、ことごとく自分自身を創造しつづけているのである。何を創造し、どのように創造し、いかに創造するのかは人類一人一人の自由選択に任されている』(01-04)。創造力は宇宙神の御子たる証である。『創造力とは、生命そのものの力である。自分の思ったことを即、この世に現わすことが出来る力なのである。生命力=創造力とも言えるのである。何を創り出してゆこうとするかは自分次第である。創造力は意識によって発動される』(01-04)。
運命の方向を決めているのは思考である。『この思考は意識によって形作られている生命エネルギーであり、いかなる形も意識がなければ存在しない。生命エネルギーは宇宙エネルギーでもある。この生命エネルギーは、自分が意識するところに流れ入る。健康を意識するならば健康に、病気を意識するならば病気にと、、、
この意識こそが現実を形作ってゆくのである』(03-06)。
以上を要約すると、『意識は創造する力です。意識は現実なのです。意識即創造力』(13-06)ということである。それでは、言霊の偉力とはいかなる力なのか?よく言われるように、『全く新しい世界を創造してゆくのは、我々一人一人の言葉の力が与かる』(01-01)。また、次のようにも言われる。
『言葉の背後に想念の力が隠れている。』(01-01)
否定的言葉の背後には否定的想念の力が隠れているのである。それとは反対に、『神性にして光り輝く言葉とは、愛、慈しみ、思いやり、幸せ、繁栄、賛美、感謝、調和、崇高、気品、成功、自信、歓喜、励まし、勇気など、自らの心を鼓舞し、人々の心に生きる勇気と力を与える宇宙の大み心、意志である』(01-01)。つまり、光明の言葉の背後には宇宙神が隠れている。光明の言葉は宇宙神に共振共鳴するのである。光明の言葉を唱えるとき、意識は神意識となるのである。意識が神意識となって、光明の言葉の通りに生命エネルギー、神力が流れ込むから、その言葉は必ず成就する。言霊とは、意識の創造力とは別個に存在する力ではない。言霊とは、言葉によって明確に方向づけられた意識の力である。言葉によって、意識が強化される。目的が明確になる。絶対なる真理の創造力に推進力が加わるのである。
 結論は、『神人よ、心を新たに意識して、神聖なる言葉のみを語りつづけよ』(01-01)である。『人類は、日ごろ何気なく使っている一つ一つの言葉の積み重ねによって』、不調和を繰り返して来たのである。『法則は実に簡単、シンプルである。常に真理の言葉を発しつづけるだけでよいのである』(03-12)。『神聖にして光り輝く言葉のみを人類一人一人は使いこなしていかねばならない』(01-01)。

40-1  絶対なる真理9  天命の道

40-1  絶対なる真理9  天命の道
「地球人類としての責任」(08-03)と題する法話にも絶対なる真理が説かれる。
『二十一世紀は自らが自らを進化させ、自らの人生を輝かしいものへと創造してゆく時代である。これは人類一人一人に課せられている課題である』。ここで、『重要なのは、絶対なる真理そのものであり、自らを信ずることこそが尊いのである。自らを善なるもの、真理そのもの、愛そのもの、光そのもの、赦しそのもの、感謝そのものと信ずることが出来ることこそが、絶対なる真理そのものである』とされる。
先ずは、絶対なる真理として究極の真理である自己の神性を信じることが重要と説かれている。次いで、従来の因果律が否定される:
『人類の未来は決して固定されているものではない。いや仮に、かつての低次元レベルの人類が未来の青写真を創造していたにせよ、いつでも変えることは可能なのだ。もし、未来が詳細まで決められていて、変えることが不可能であるならば、我々人間にとって自由意志など存在しないも同然である。』
我々は自由意志を持った神そのものであるから、如何なる因果律でも変容できるのである。大難は小難に、さらに無難に。大難すら無難にできるのである。神自身を制限するのは自己限定以外にはない。それだけではなく、更に、自由に神性顕現も出来るのである。2008年には、神示により、「我即神也」を肉体に顕現することを宇宙神に誓う行が始まった。これは2008年の行に限定されるものではなく、我々がなすべき天命そのものである。この行の趣旨は次のように要約される:
『自らが自らに奇跡を生じさせてゆくのである。それこそ我々の意識が物質や現象を創り出してゆくのである。それらはすべて絶対なる真理である。』
「絶対なる真理」とは、このように我々が『すべて自分の信念により』、『自らの責任において』、自らの意識によって神性を肉体に顕現してゆくことである。
問題なのは、我々が日頃どこに意識を向けているかである。『人間は常に自分の心を神聖なるもの、完璧なるもの、神なるものへと向け、それを意識して生きるならば、マイナスの要因を引きつけることは絶対にない。その崇高な意識を強化するのが祈り、印、真理の言葉などである』(03-12)。崇高な意識は因縁因果の波を引きつけないだけではない。
『崇高な志、希望、無限なるものすべてに意識を集中させるならば、それらの無限なるものは必ず地上に顕現されてゆくのである』(03-12)。神人はこの果因説の生き方、進化創造の姿を人類に先駆けて示してゆく天命がある。更に、その姿を通して、『人類一人一人を究極の真理に目覚めさせ、救済するという』天命がある。
 個人人類同時成道の道だから天命も二方向である。ただし、人類救済は現象面の救済ではない。自分自身は、自由意志を根底に、基準となる信念、選択、決断―決定―決行、自己責任という絶対の真理の行為により完成されてゆく。それと同様、人類一人一人も本人の意識的目覚めによる絶対の真理に則って救済されてゆくのである。神人は印により人類の意識の目覚めを促しつづけるのである。(『 』年月なきはすべて08-03)

39-14  絶対なる真理8   自由意志と果因説

39-14  絶対なる真理8   自由意志と果因説
進化創造とは因縁因果を果たし、その問題を自己の力で乗り越えつつ、自己及び人類の未来を積極的に創造してゆく行為である。未来の創造とは神界で完成している宇宙神のみ心の世界を顕現してゆくことである。その実践的行動が祈り、印、言霊、呼吸法、マンダラである。それらは究極の真理を妨げる自己の固定観念を打ち砕く働きをしながら、未来を創るのである。それらの実践では、自己が創造主であることの強い自覚と輝かしい未来を創るという意欲が必要である。
かつての『因果律の解釈では、人間は全く自由意志がないということになる。現在や未来は過去に起こったことから生じる必然ということになる』。『これでは人間としての創造力、個の尊厳、個の自由意志が全く無視されることになる』(07-06)。心の法則、想念の法則と言えども、その根底にあるのは個々の自由意志と選択なのである。“この世の中に偶然はない。すべては必然である”という時は、自分に起こってしまった時の受け止め方のことを言っているのである。自分に起こったことはすべて自己責任である。自己責任ということは、他に責任転嫁できないという意味である。
だとしても、心の法則、想念の法則つまり絶対なる真理は、未来について宿命論を唱えるものではない。人間の自由意志を否定するのは、過去の因果律の解釈だけではない。エピジェネティックス以前のDNAを人間行動の根源としたセントラルドグマ、マルクスの階級闘争論、ポイジティブ心理学以前の心理学、環境決定論等、現代の学問のほとんどは人間の行動が自由意志以外の要因によって決定されてしまうとして来た。文明そのものが人間の神性とその尊厳を見失ったところに、その基盤を置いていたのだから致し方ないことであった。
そこで降ろされたのが果因説である。『この果因説は全く過去の因縁因果と無縁で生きられる方法である。過去の因果で未来は決まらないのである。これが判れば、過去にこだわる必要がなくなるのである。自分の現在も未来も、自分の自由意志と創造力によって、いかようにもつくり出してゆくことが出来るのである。切り開いてゆくことが可能なのである。また、変えることも自由に行えるのである。』(07-06)
過去の因果説の解釈は釈尊の教えから逸れてしまった。人類はその呪縛から解放されたのである。『因果律はこの世から消えたのである』(08-10)。究極の真理を基盤に、この絶対なる真理に則り、自己と人類の神性顕現に意識を集中してゆけば、必ず世界は平和になる。『自らの神性、即ちすべては完璧、欠けたるものなし、大成就のみを徹底的に信じることだ。すると必ず達成する』(14-12日々の指針)。
神人の天命は究極の真理「我即神也」「人類即神也」に意識を集中し、その真理の姿がこの世に顕現するための創造活動、つまり果因説の行いに徹することだ。『世界平和の創造者』(05-05)という働きに徹することだ。『人類一人一人が高い意識を持ち、“自分たちの手で、地上に平和をもたらすのだ”という強い意志の力を発揮してこそ、初めて平和は実現するのである』(05-05)。              
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