42-10  自分のありのままの姿

42-10  自分のありのままの姿

『いま現在、多くの人はみな、自分のありのままの姿を正直に見ていないのです。みな自分が見たいように見ているだけなのです。』(97-05  以下すべて同じ)

 

 自分のありのままの姿とは神そのものの姿しかない。多くの人は“正直に見る”というと、欠点や汚れをクローズアップしてしまうのである。多くの人は、欠点や汚れをきちんと報告することが“正直に見ること”という固定観念から抜け出せない。“見たいように見る”とはできるだけ客観的に見たいのである。そのような見方こそが道徳的に価値あることだと思い込まされているのである。確かに独りよがりの自惚れなど、誰も相手にしたくないものである。多くの人は、世間の人が見る目を恐れて、自分自身を見るようマインドコントロールされているのである。

 自分が自分を正直に見る。その場合、世間の人の見方など関係ない。固定観念など邪魔でしかない。この世的な知性で『自分自身に判断を下さないことです』。この世的な知性は、現われの世界しか知らない。『欠点や汚れやしみがあったにせよ、そんなものは問題ではありません』。宇宙神が現象の汚れを問題にしたことはない。誰にでも汚れはあるのだから、「消えてゆく姿」として、『決して欠点や汚れを見ないことです。認めないことです』。

 もっと積極的に、自分の神性を褒めたたえることが肝要である。『自分を善人に変えることは必要ありません。どだい自分を変えようとするやり方は間違っています』。自分の神性を『思い出す。呼び起こせばよいだけです』。凡夫を教育するやり方は間違っている。無駄な努力です。『ただ自分の心を新たなる方向から見つめ直すだけでよいのです』。新たなる方向から見るために、何かを『変える必要は何もないのです』。

 『新たな方向』とは神意識の方向からということ。直霊の立場から自分の本心を見るということ。人間意識の方向から現象の姿を見ることは祈りでも何でもない。妄想幻覚を掴み、過去を摑んで、神性を見ないのが人間意識の見方である。正しい自分自身の見方とは「我即神也」しかない。それ以外の見方は、すべてカルマによるものである。謙虚さを装った自己卑下、自己批判も同様である。自分を自分たらしめて、自分の天命を完うさせる見方とは「我即神也、人類即神也」しかない。変えるのは自分の言動行為ではない。見る方向である。

 正しい見方を妨げる要因は現象の姿と固定観念による見方である。そのすべてを「消えてゆく姿」として、自己の神性を見るのである。隠れて見えていなかった自己の神性を褒めたたえるのである。神性の自分が言いそうな言葉を言霊として発するのである。それを実践しているのが「すべては必ず良くなる 絶対大丈夫 大成就」「すべては完璧 欠けてるものなし 大成就」の言霊である。これが守護の神霊との一体化ということである。仮に一体になっていなくても、この言霊を唱えるところ、守護の神霊と自己との共振共鳴が始まるのである。そして、守護の神霊と一体化した姿を顕現することが出来るようになる。その日のために、神性復活目覚めの印を組みつづけるのである。

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42-9 共振共鳴する神意識の言葉

42-9  共振共鳴する神意識の言葉

『人類即神也の宣言、唱名は、人類の神性を称えるひびきである。』(2001-03日々の指針)

『人類即神也の印を組む者より真理は流れ出て、全世界を潤い尽くす。』

『いかなる心の状態で“我即神也”と発し、印を組んでも、その発声は、本来の崇高なる神の心より発する言霊そのものである。』(2001-01日々の指針)

 

 祈り、印、言霊は本心と共鳴共振する“縁”である。これはスイッチにも譬えられる。スイッチを押す手が汚れていようが、洗っていようが、スイッチを押せば電灯は輝く。それと同様、祈るとき、印を組むとき、言霊を唱えるとき、いずれの場合もそのときの心境は問われない。徳のあるなし、業生の多寡、いずれも問われない。直近の言動の善悪、生涯の言動の善悪すら問われない。人は皆本質において神そのものなのだから、祈り、印を組み、言霊を唱えるとき本心と共振共鳴するようになっているのである。また、本心と共振共鳴する以外の方法で、己を鍛えなおしたところで上手くいかない。瓦はいくら磨いたところで、ダイアモンドにはならないのである。

 祈り、印、言霊とはこのように絶対力を持つのである。この絶対力への確信があるからこそ、『人類を真理に目覚めるよう促す』という気迫が湧いてくる。しかし、それは「人類を浄める」というエネルギーではない。『富める者と貧しき者、救う者と救われる者、こういう上下関係がある間は、そこには真の平和は訪れない』(00-06 P71)。二元対立は本物ではない。『物理的なこの世的な救済を超えて、一人一人の中に神を見る。それが我々の人類救済なのです』(00-06 P70)。真の祈り、印、言霊は何も浄めようとしない。自他の本心をひたすら拝むものである。称えるものである。ひたすら本心を称えるとき、本心を邪魔するエネルギーは変容されるのである。

 真の祈りは果因説の祈りである。真の祈り、宣言は現象の改善を望むものではない。真の祈りは本来意識、神意識と共振共鳴するものである。「我即神也」の宣言文も同じである。『私の想念行為はあふれ出る無限なる叡智、愛、赦し、光に満たされている』と断定的に宣言すればいいのである。「そうなりたい。そうでありますように」というのは人間意識である。「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」も同様である。「完璧だ。天に完璧なる如く、地にも完璧であって当然」という神の意識で宣言すればいい。

 凡そすべての不完全性は過去の姿であって。すべて消え去っている。すべて赦されている。また、自らが赦せば、それでいいこと。不完全性に捉われるのは、消えてゆく姿を掴んでいるに過ぎない。「不完全性から完璧へ向上、改善する」「欠けたるものがあるから、何かを補う」「罪があるから赦しを乞う」「上なる神と下なる人間」という二元対立の人間意識と本心の神意識とは共振共鳴することはない。本心と共振共鳴するのは神意識の言葉を語ることなのである。誰であろうと、それまでのキャリアがどうであろうと、今この瞬間、肉体を持ったまま、神意識の言葉を語ることである。

42-8  「我即神也」の宣言

42-8  「我即神也」の宣言

「我即神也」は肉体意識の言葉ではない。これは生命の宣言である。本心の自己宣言である。肉体意識ではピンとこないかもしれない。それでも大丈夫なのが言霊というもの。悟ってもいないのに「自分は悟った」と言えば、西園寺会長なら「私には見えるのよ。何をうそぶいているの」とツッコまれそうである。しかし、もう一歩奥がある。そんな惚けた人がいたとしても、会長は次のように言われる。

『今の私は、表面に現れているその人の姿を見ているのではない。私はその人の背後に輝くオーラを見てとっている。神の姿そのものを見ることが出来たのだ。私の心は消えてゆく姿の業を見ているのではない。どんな人にも神の心が宿っている。その光り輝く真の姿を見ることが出来たのだ。』(1994/06/20アテネにて)

では、肉体人間が「我即神也」の言葉を繰り返す意味はどこにあるのか?矛盾は生じていないのか?矛盾などないのである。「我即神也」は究極の真理であり、絶対に変わることがない真理なのである。「我即神也」は果因説の宣言である。未来の自分の姿をこの世に創造する行為である。本心にとって、“自分自身が神であることは当然の事実”なのである。そのような神の言葉を、肉体を持ちながら、過去世の因縁を持ちながら宣言することが重要なのである。

それまでの肉体人間の姿がどうであれ、真理を宣言した瞬間、宣言した真理のままに宣言した人は神なのである。そして、未来には宣言したように神の姿を顕現するのである。真理を宣言する意識体は、神の世界と共振共鳴し始めて、神の世界を顕現し始めるのである。真理を宣言する意識体は神意識になっているのである。真理を語る心境や真理の理解度がどうであれ、真理「我即神也」を語る者は神なのでる。

「我即神也」の宣言は凡夫が神に進化するための功徳ではない。因でもない。これは凡夫でさえ神を顕わす“縁”なのである。真理の宣言は神界の姿を現実化する“縁”なのである。因の結果も神の世界では成就している。宇宙神が我々を神として産み出してくれたことは事実である。因とはこの事実である。結果とは、直霊神が自らの姿を自ら決めた姿である。人間にはこの事実(本来因果)を変更することは出来ない。テロリストであろうと出来ない。この事実を変更する原罪などはないのである。

肉体を持った意識体が、輪廻の中にあって、本心の言葉を語ることが重要なのである。語る言葉が“縁”となり、神の世界に成就していた神の姿と共振共鳴する。そして、その神の姿がこの世に顕われるのである。それと同時に、輪廻をもたらしていたカルマが光に変容されてしまうのである。この本心の言葉を語る行為が真の祈りであり、果因説による創造活動なのである。

本心の言葉

私は無限なるすべてを宇宙神から授かった。私自身の内には無限なるすべてが存在している。私の内から無限なる生命エネルギー、無限なる叡智、無限なる赦し、無限なる愛があふれ出てくる。私は完璧な力を持つ神そのものである。    

42-7  果因説の祈り

42-7  果因説の祈り

『自分の中にすべてがあるのだ。初めからすべてが完璧に調えられているのだと、自分の中の治癒力、自分の中の直観力、自分の中の素晴らしいものに自分自身が興味を持ち始めるのです。自分にはできる、その力が絶対にあると、自分自身で自分を認めると、それまでの弱く不平不満の多かった自分の中の不完全な部分が瞬間に消えてしまいます。ですから自分の心をどこに持っていくか、が大切になるのです。自分の心を常に神の中に置くこと、これがすべてです。』(98/07/19聖ヶ丘)

『神人を現わしてゆくためには、ただただ神そのものの言葉を使うだけでよいのです。』

98/07/12富士聖地)

 

 『心を常に神の中に置く』、『神の中に完全に入りきる』(97/12/14)とは神の立場に立つということである。本来の自分に立ち返るということである。簡単にできるわけがないと諦めてはいけない。その方法が祈りであり、印なのだ。資格とか浄めという前準備もいらない。『今この瞬間』、あなたは神なのだから。『例えば電気をつける時に、電気をつけるこの手が洗ってない手であろうと、汚れた手であろうと、関係ないスイッチを押せばこの部屋は明るくなるのです。手は関係ない。この押すことが大切なのです』(98-01)。凡夫の様相を呈していようが、神の言葉を語ればいい。祈ればいい。印を組めばいい。

 果因説の創造とは神になるプロセスではない。神を顕わすプロセスである。本来自分自身は神なのだから、神になったと仮定して、神の言葉を語ればいい。「神になったと仮定して」とは自分は神でないという意識が強くて、自分の意識が抵抗するからそのように言うのである。仮定しようがしまいが、自分は神以外の存在にはなれないのである。また、神の言葉は内催しの言葉ではないから、「仮定して」と言う。

 仮定のように感じられるのだが、実は真実である。ここは果因説のポイントである。『今まで自分は誤ったことを認めてきました。病気がある、不幸がある、事故がある、不調和だ、不完全だと、、、。そしてその自分の認めたものが自分の人生に現われ、歴史を作ってきたのです。でもその認めたことは、すべて間違いだったのです』(1998/05/18)。つまり、この世こそ真実ではない。この世は、間違った観念が消えてゆく姿として現れている世界なのである。祈るときは、この世の常識の上に立ってはいけない。祈るときは神の立場に立つのである。果因説の祈りは神の立場での祈りである。社会的生活はこの世の常識に従えばいい。

   果因説の祈り

 私は宇宙神の根源につながった神である。私は宇宙神の輝く叡智に満たされている。私の心は宇宙神の愛に満たされている。私の細胞は宇宙神の生命エネルギーに満たされている。神である私は完璧である。私のすべては赦された。私もすべてを赦している。私は宇宙神に愛されている。私も世界人類を愛している。私の体は宇宙神の生命エネルギーでゾクゾクしている。すべて癒された。すべての細胞は、いつまでも若く、いつまでも美しく、いつまでも健康である。        

42-6  祈ることは原因か縁か

42-6  祈ることは原因か縁か

果因説の目的成就と因果説の願望成就との違い

 『願望と目的とは違うんです。大きな違いがあります。願望というものは、自分では絶対有り得ないなということを、ただ夢みたいに、こうなったらいいな、こうあったらいいなと思うだけで、本人は、それに向かって努力しようとか、一歩一歩、歩を進めようとはしないんです。』『世界を幸せに平和にするというのは、願望ではないのです。これは目的なのです。

“我即神也”、これは私たちに与えられた素晴らしい目的なのです。目的というのは、自分の力で、自分の意志で、自分の心で、この現実の社会に現わそうとする力なんです。』

1995/06/18聖が丘)

果因説による創造の目的は神の世界では既に結果の姿として成就している。神の世界で結果として成就している姿をこの世に降ろすことが、果因説による創造の目的なのである。  

一般的な願望成就の場合、願望の念を重ねることが現象世界出現の因になると考えられている。あるいは、外なる神々に願望成就をお願いすることが現象化の因となると期待される。これらの自らが祈るという原因によって、願望した姿が結果をもたらすことが期待されている。このような願望成就の道は因果の世界の引き寄せの法則を使おうとしているに過ぎない。

果因説の創造の場合、目的は神の世界で既に成就しているので、断定的に表現される。「我即神也」「人類即神也」「世界人類即平和也」「すべては完璧 欠けたるものなし」等々である。「0000でありますように」とは決して言わない(「世界人類が平和でありますように」が例外であることは西園寺会長が言及されている)。

「我即神也」の言霊、印の行為はその現実化のための原因ではない。この言霊、印は“縁”である。つまり、言霊、印によって、自分自身が本来の成就されている神界に共振共鳴することによって、その本来の姿が顕現するのである。成就された姿に意識を向けることを祈りという。この場合の祈りは目的成就のための“縁”なのである。

神ではなく現象界における人間の立場で、神を顕わそうとしても、それはできない。人間世界の状況はさておき、今この瞬間、神の立場に立つのである。そして、神の立場で真理を宣言するのである。「私は健康そのものである。私は豊かさそのものである。私は幸福そのものである」等々と。現象界はさておき、今この瞬間、神なる我が祈り、神の立場に立つ。そして印、言霊という“縁”によって、神に共振共鳴すると、顕現が始まる。

因縁因果説では、「祈ることが原因」となる。そして、その結果として祈りが達成されることが期待される。それに対し、果因説では、結果は既に神界に成就している。その神界の姿は結果であり、同時に原因なのである。祈り、印、言霊という“縁”を使って、現象界の我が神界の我に共振共鳴するとき、「我即神也」「人類即神也」等という目的は成就する。果因説では、原因は結果であり、また目的である。既に成就している姿は、“縁”を通してこの現象界においても成就するのである。因縁因果説とは異なり、果因説では「祈ることは原因ではなく」、共振共鳴を生じさせる“縁”である。           2

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