39-1  鏡菩薩の話5  無限なる創造力のこと

39-1  鏡菩薩の話5  無限なる創造力のこと
自分自身についての観念が運命と現れる。これはカルマの法則と言うより、むしろ「自分こそが自分の人生の創造者である」ということである。『人類はみな、誰もが一人残らず自分自身を創造している神だ』(注1)。人類は自分自身の神性を見損ない、自分自身を人間として創造してしまった。しかし、物質界の創造は絶対的な創造とは異なる。すべては修復可能なのである。人間の姿ではなく、本来の神性顕現を再開しさえすればいいのです。
神性顕現の鍵は言葉にあります。『自分の語る言葉はすべて自分自身に語られているということであります。言葉は、第三次現の世界に物質を現わすために必要だったのです』(注2)。言葉は神の自己実現つまり神性顕現のためのものです。自分が自分のことを表現するためのものなのです。言葉を発する神には、無限なる創造力が備わっているため、発せられた言葉はすべて実現するのです。言霊の力とは、自分自身に備わる無限なる創造力のことなのです。
自分についての観念であろうと言葉であろうと、それが真実であろうと虚構であろうが、自分の創造力は見事にそれを現実化してしまうのです。『それがポジティブであろうとネガティブであろうが、自分が本当に信じていることが自らの人生に実現する』(注3)のです。今日の現実の世界は虚構を基に作り上げられた虚実の世界なのです。人類が皆そろって、それが現実であると思い込んだ現実なのです。虚構を基にした現実ではなく、宇宙神が創造した現実の世界は厳然とあるのです。その厳然とある真実の現実をこの世に顕わす。それが祈りの目的なのです。人間を演ずる神が、神を経験する神に戻る時代になったのです。
言葉は心の世界を現実の世界に映し出す鏡なのです。良くも悪くも心の世界は、自分の無限なる創造力によって現実の世界に映し出される。祈りと印は神の世界を現実の世界に映し出す鏡なのです。『天の無限なる叡智を映し出す鏡』(注4)なのです。祈りや印によって、自分にとって都合がいい世界を実現してもらうのではないのです。真実の自分の姿、人類の姿を心で観て、宣言するのです。我即神也の姿、人類即神也の姿を観て、言葉で愛で、褒め称え、顕現するのです。我即神也の姿、人類即神也の姿は宇宙神が創造した世界にあるのです。完全平和の世界です。それは人間に備わった無限なる創造力、つまり『天の無限なる叡智を映し出す鏡』によって現実の世界に顕現するのです。そう、鏡の原理とは無限なる創造力のことなのです。
鏡は、内なるものを外なる世界に映し出す。自分が自分はこうだと思った観念は、物質の世界の体験となる。人間は自分の信念を体験しつづける。自分に備わった無限なる創造力は間違えたことなど一度もない。すべの信念を成就しつづけてきた。二十一世紀は、我即神也、人類即神也を成就する時代である。
あなたの願いを聞く神はいない。あなたの願うところを叶えるのは、あなたの無限なる創造力である。それが無限である限り、成就しないことはない。あなたは神なのだから。
注1  99-08 日々の指針   注2  98-09   注3  2011/12/04
注4  02-11  インフィニットワーズの詩35          2017/02/25
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38-14  鏡菩薩の話4 

38-14  鏡菩薩の話4   
自分のことを神ではないと思っている神
『カルマの原因は過去にあるのではなく、我即神也を忘れてしまっている自分自身にあるのである。』(10-06 日々の指針)
 輪廻転生という絶対なる法則の中で、本質的に凡夫なる人間が堂々巡りをしているわけではない。何人も本質として神なのだが、自らの自由意思によって自らの神性を否定しまった。その自己否定の念が固定観念となって、自らの創造力によって、輪廻の姿を呈しているのである。しかし、輪廻の姿は、無駄なように見ても、無駄ではない。すべては真理への目覚めへのプロセスなのである。
 人間とは自分のことを神ではないと思っている神なのである。人間は『自らの固定観念で自らを縛りつけ』(08-06)ているのである。「自分は神ではない」という信念が固定観念となっているのである。神以外にはなれない神が肉体生活の中で、「自分は神ではない」と信じてしまったのである。それが今日の人間である。そう言った人間の様相を現わす神が、祈りと印によって、本来の神の姿を顕わしてゆく。この物語が、現在進行中なのである。
 自分のことを神であると思おうが思うまいが、人は神なのである。人は皆、自分について信じた通りの姿を、自分の創造力で現わしている神である。どうせなら、真理である「我即神也」を信じればいい。固定観念がその真理を否定するのだが、それを超えるのが祈り、言霊、印である。それらはすべて、自己と人類を褒め称える行為である。果因説の祈り、言霊、印は迷いを浄めるものと言うより、むしろ本心を褒め称え、引き出すものである。
 『人間は本来、自分を褒め称えた通りの自分になるし、また、心に描いた通りの自分になることが出来る。』(99-06  日々の指針)
 白光誌には、自分を褒め称える言葉がたくさん散りばめられている。シャワーのように自分自身に毎日のように浴びせかけてゆこう。以下、その事例を掲載します。
 我即神也の私が世界人類の平和のためにここに存在している。我即神也の私が宇宙神の光を浴びて、そして我即神也の私そのもの、神そのものを表していく。我即神也の私は何でも出来る。私が宇宙神のエネルギーを受ける。その私が宇宙神のエネルギーを私自身のために使う。(98/06/14)
 私の生命も、人類の生命も素晴らしいものだ。善なるものだ。完成された神そのものだ。
(99/07/25)
 私は自分の印によって、あらゆる問題が取り除かれる。自分の幸せ、すべてが調った姿を人類に示していく。私は幸せになるのが当然です。健康で生きて、自分の天命が完うされて神界へ行くのが当然です。
 私は宇宙神のエネルギーを使いこなします。明日からは素晴らしいことが起こる。絶対自分の道を自分で行く。出来る。何でもやれる。病気も治る。苦しみはない。悲しみもない。幸せのみ。健康のみ。平和のみ。(99/05/16)

38-13  鏡菩薩の話3

38-13  鏡菩薩の話3
自己責任と自己決定
 私の話の中で、人が最も認め難いのは自己責任の問題である。人間の脳は自己責任を認めるより、他への責任転嫁、自己憐憫、怒りの正当化を選択する方が楽に感じるのである。それは全くの錯覚に過ぎない。どのように言い訳をしようが、真理は一つである。
『自分に生じるいかなる現象も、外からもたらされるものではなく、すべて自らがつくり出しているものである。』(06-08)
『善いことも悪いこともそれは誰の責任でもなく、自分の責任である。』(11-07)
苦しみが深く、自己責任を認め難くとも、認めてゆくところに道が開かれる。一度、「消えてゆく姿」と自分の責任を認めてしまえば、次の世界を選択―決定―創造できるのである。自己神性を認める選択ができるのである。これからの世界も自分でつくり出してゆくことが出来るのである。それだけではない、人類を真理に目覚めさせてゆくと言う大天命を完うしてゆくことも出来るのである。
また、自己責任を認めるからこそ、自分を赦し自分を愛することが出来るのである。自己責任を認めない限り、自分を赦すことが出来ない。自分の神性を認めることが出来ない。自分を侵すものを認める限り、自分を神と観ることはできない。自分以外に自分を不利に導く力はないと認めるからこそ、自分を神と観ることが出来る。自己責任の取り方で最も簡潔で合理的なのが、「消えてゆく姿」の実践である。責任を取りながらも、自分を責めず自分を赦す、そして自分を愛す。さらに人類全体を愛すことが出来るのである。
自己責任を認めるとは、『何事にも、決して逃げず、騒がず、恐れず、いかなる状況をも心して受け入れる』ことである。そして、祈って『宇宙神の聖にして神秘なる力によってすべて光りに変容され、絶対大丈夫、すべては必ず良くなる、大成就』(2011  新年祝賀祭)の世界に至るのである。
逃げない自分、騒がない自分、恐れのない自分は聖なる自分である、神なる自分である。聖なる自分が顕われるところ、一切の不調和はない。愛、光、真理、生命だけが残るのである。「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」だけが残るのである。
自己責任の根底には、個々人に神としての尊厳があり、宇宙神から受け継いだ自由意志がある。自由意志による自己信念(自分とは何者か)-自己選択―自己決定がある。この法則は、万人に共通するものである。自分のすべてはもとより、テレビ、新聞等の出来事も例外なく含まれる。自他にいかなる事件があろうと、『被害者もなければ加害者もない。加害者であろうと、被害者であろうと、魂的にお互いに納得済みである。決して偶然ではない。前生の因縁の消えてゆく姿である』(07-11)。法律の不備、社会システム、教育が悪いのではない。それらを変えなければいけないのでもない。変えなければいけないのは、我々の受け止め方である。感情移入が愛なのではない。いかなる状況にあっても、人物の神魂(本心、人類即神也、神性)を観ることが愛である。

38-12 鏡菩薩の話2

38-12  鏡菩薩の話2
前回「すべては自分が自分に向き合う意識の中のことである。意識の中のことが現象化しているのである」と言った。私の使命はその真理を明らかにすることである。真理は自分が自分に向き合うところにある。つまり、真理は鏡にある。現象界は、客観的存在と思われている。物質は実在のように考えられている。しかし、それらはすべて意識の中のことが現れた体験なのである。本来の神意識が顕現すれば、人は神そのものを体験するのである。『本来の神意識、光の身体は、高次元世界に厳然として存在しているのである』(07-07)。自分自身がすべての神性の源泉なのである。次元上昇とは自らに内在する神性を認めることである。自らに神を認める意識が、神性を肉体界で体現するのである。
自分が神そのものであるにもかかわらず、現象に惑わされて自らを不完全と認めたことがカルマの始まりである。一度自らを不完全で汚れたものと認めた意識が固定観念となってしまった。その固定観念が輪廻転生しているのである。固定観念が自らを縛り、限定しているのである。人類はその自分自身についての観念を体験しつづけているのである。その体験は決して幸せなものではない。『それ(いかなる苦悩も不幸も悲惨さも)は全人類の中に存在する神から分離した結果なのである。誰もが自らの神性を、自らブロック(妨害)してしまった結果なのである』(07-07)。
人類に最も求められることは、自らを知ること、自らを信じることである。『人類一人一人が心して、自らの神性を思い出すべきなのである』(07-07)。問題の発生、つまりカルマの発生も、問題の根本解決、つまり次元上昇もすべて自己意識、自己認識、自己評価にある。それは、自己についての固定観念にあると言ってもいい。人生は良くも悪くも、セルフサービスである。人生はすべて、自由意志に基づく自己選択ー自己決定―自己創造ー自己責任なのである。自分の神性を認めない過小評価は、自己卑下、自己限定、自己否定である。自己否定する者は自己処罰、自縄自縛、自業自得を体験する。「我即神也」を認める者は、宇宙神の自己陶酔、宇宙神の自画自賛、宇宙神の至福を体験する。人類の天命とは『自己神性実現、自己神性完結』(08-01)である。つまり、人類の天命とは、この世において内なる神性を顕現することに他ならない。
自らを信じる、自己評価、自縄自縛等々という言葉が続いた。主語は「私」であり。目的語があれば、「私自身」になる。自分が未来の自分を創ってゆく。外部要因など何もない。これで人生のすべてが説明できてしまう。この鏡の原理ですべて説明し尽くすことができるのである。それを伝えるから、鏡菩薩と名乗るのである。
人が自分を見て、「吾は神を見たる」と思う。その前提になくてはならないのは、自分が自分を見て、「我は神を見たる」と確信することである。この根拠は現象界にはなくていい。目に見えない神性を見ることがすべてである。それが『自分が自分に調和する』ということである。『すべての根本は、自分そのものにある。正すべき相手は他や外ではなく、自分自身である。内なる自分との調和により、今まで否定的マイナス方面に偏っていた思考、言動が正されてゆく』(00-07)。          

38-11  固定観念と神意識

38-11  固定観念と神意識
 固定観念とは思い込みのことである。固定観念は無意識的な信念に基づいているから、容易には変え難い。殊に重要なのが自分自身に関する固定観念である。固定観念はものの観方にバイアス(偏り)を与えてしまう。固定観念の反対は神意識である。神意識は、ものの本質のみを観る。どちらを選ぶのか、それはいつでも選択できるものである。固定観念を選択すれば、それに基づく選択―決定ー決行がなされる。神意識を選択すれば、それに基づく選択ー決定ー決行がなされる。自分自身について何を信じて、どのように評価しているのか。人類はその信念、自己評価によって人生を決めているのである。人生とは自分自身についての信念を体験する場なのである。天命とは人類に先駆けて、「我即神也」つまり自己神性を肉体に顕現し、人類を真理に目覚めさせてゆくことである。
 神意識は時空を超えた「我即神也」の神性しか知らない、神性しか観ない。反対に、固定観念は過去に基づいている。現象に基づいている。神性を認めない。時空を超えた自分自身の神性を自分であるとするのか、過去に基づいた凡夫を自分であるとするのか。その選択は自由意志に任されているのである。神人はこの世で「我即神也」を顕現することを選択したのである。選択した以上、その選択を体験することになることは必定である。
 今日まで人類は固定観念によって自他を過小評価してきたのである。今後は、神意識によって正当に、自分たちを神と崇めるようになる。『出来ない、無理だ、不可能だ、能力がない、、、という固定観念が一つ一つはがされてゆく』(08-10)。その方法が祈りと印なのである。『神人はみな、自らの宇宙意識(我即神也)によって、すべて一切の固定観念を取り払うのである』(07-04)。
 人生における『事件、出来事を懇切丁寧に原因を追求し、解決がなされたとしても、人類一人ひとりの心の奥深くに根差している自己不信、自己嫌悪、自己破壊、自己憐憫などの想念がなくならない限り、悲劇は繰り返し起こりつづけるのである』(00-09)。つまり、現象界の事実の分析、解決は根本的な救済にはならない。そんなものは「消えてゆく姿」と見過ごしてゆくだけである。見過ごせないところに、自己不信、自己嫌悪、、自己破壊、自己憐憫という固定観念がはびこり、次の否定的現象を再生産するのである。
 自らが「我即神也」を否定する固定観念がカルマなのである。自らが「我即神也」を認めることが目覚めなのである。神意識は固定観念によって覆われる。今後、固定観念が熔解して、神意識は蘇るのである。客観的事実などというものは虚構なのである。すべては自分が自分に向き合う意識の中のことである。意識の中のことが現象化しているのである。『人間は不完全なる者、ひ弱な者、至らない者といった迷信』(00-09)を、いつまでも信じてはいけない。それは、あくまでも過去、現象の話なのである。過去、現象が再生産されても、誰も幸福にならない。信じることは体験するのである。何かを信じるならば、自己の神性を信じるのである。神意識にとって、自分自身は神性そのもの、人類一人一人も神性そのものなのである。神意識によって自らが自らを崇敬するならば、神性顕現は大成就する。                            2017/02/01
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