40-13 「過去はない」4  神性復活

40-13 「過去はない」4  神性復活
 前回、「過去はない」という宣言は「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」という宣言であると言った。厳密に言えば、「過去はない」は「色即是空」に対応する。ならば、「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」は「空即是色」に対応する。「色即是空」と「空即是色」が一つの流れのセットならば、「過去はない」と「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」も一つの流れのセットなのである。 
混同してはいけないことがある。それは「いかなる現象も過去の因縁の必然の現われだから、完璧である」と考えることである。「すべては完璧」とは先ずは神霊界の事実なのである。その事実を認めることによって、現象界でも完璧性、神性が顕現してくるのである。因縁因果という人間が創った法則によって、因縁因果があるように現れている姿はあくまでも「消えてゆく姿」なのである。
「空」と言ったのでは、頭でわかったようで、実践となるには高いハードルがある。その点、「過去はない」「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」は平易な言葉である。しかも、言霊として唱えるだけでパワーが発揮される。
言霊の力は二つある。一つは、唱える前の心境には関わらず、唱えた人はその言葉通りの心境になってしまう力である。もう一つは、言葉の内容を現実のものとしてしまう力である。
「過去はない」「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」は宇宙神の心境なのである。
これを唱えているうちに、唱える人は宇宙神と共振共鳴し始めるのである。そして、まさに『宇宙神の法則』(12-08 07-07)の通りに神体、霊体の完璧なる姿が顕現し始めるのである。過去世の因縁はどうなったのか?真の言霊を唱える人は因縁因果を選択するのではなく、果因説を選択しているから過去世の因縁は変容されてしまうのである。現れる前に自然消滅するのである。初めから無かったものが、無になるのである。逆に、初めから在った存在が現象界にも顕現するのである。それは神性そのものである。これが神性復活である。
 この真の言霊と「神性復活目覚めの印」は自らの神性を引き出すだけではない。言霊も印も『人類一人一人に内在せる神を呼び起こし、究極の真理に目覚めさせてゆくことを目的としている』(12-10)。「神性復活目覚めの印」は「我即神也と人類即神也」の印が合体したような個人人類同時成道の印なのである。頭の上で組む上向きの如来印は『光り輝く神界に住している本来の自分』を表わす。『本来の自分は、現象の世界の状況に一切把われることなく、その心は静謐にして澄み浄まり、少しの乱れもなく、淡々としてすべては完璧、欠けたるものなし、大成就が鳴りひびいている』(12-08)。ここで言う『現象の世界の状況に一切把われることなく』とは「過去はない」ということである。「すべては完璧、、、という言霊が鳴りひびいているのは「本来の自分」である。五本指の球形は神性そのものを表わす。五本の指を合わせる動作は「我は神性そのもの」ということを表現している。両手を前に突き出し、左右に開き、戻す動作は『限りなく世界中くまなく光が遍く届くよう、そして一人でも救われない人が存在しないよう、大光明意識に徹して』(12-11)、その意識のままに大光明を放つのである。             
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40-12  「過去はない」3

40-12  「過去はない」3
 「過去はない」という真理はどこまでも深くなる。単に個人的な過去ばかりではない。「過去の常識、知識」もひっくり返されたのである。それは輪廻転生論、因果律のことである。輪廻転生論、因果律は一般世間、とりわけ現代人は認めない傾向にある。それに対し、かつて聖ヶ丘の時代では、輪廻転生、因果律は宗教の基礎知識として語られた。「悪行は悪運となって返って来るのだからしてはならない」という戒めの法則、「善・陰徳を為せば、善が返ってくる」という救済の法則として語られた。
 だが、『輪廻転生説に替わって果因説が、ここ富士聖地に天降ったのである』。『輪廻転生説、因果律が突如として覆されたのである』。たしかに、『これは青天の霹靂であった。仏教の宿命論を真っ向から打ち消すものである』。
 『輪廻転生説や因果律は、もともとなかったのである』。『これらの説はすべて、天の側、神の側が人類に対して創り与えたものではなく、人類自らがつくり出したものである。この原理原則を決して忘れてはならないのである』。
 「悪業の償い、報い」の法則は人類の創作であった。人類が「償い、報いはある」と信じたが故に、あたかもそれが真実の法則のように作用しているに過ぎない。「償い、報い、褒美」を管理する神様などいなかったのである。そんな神様を信じることは真の信仰ではなかったのである。人類の中でも宗教的な人類といえども、過去の力という迷信を信じていたのである。
 したがって、「過去はない」という真理は無限なる赦しの真理なのである。『神の世界、光の世界は、そのような過去の罪や行為に対して制裁を加えることは一切ないのである』。『天は、神は、宇宙神は、人類の過去などに一切無頓着である。どうでもよいことなのである』。
 「過去はない」という宣言には、「宗教の基礎知識・イロハであった輪廻転生・因果律はない」という宣言も含まれているのである。この原理原則を意識するか否かは重要である。すぐには体験として、真理を実践することは容易ではないかも知れない。それでは、何故重要なのか。それは「自分を赦す」ということに関わってくるからである。輪廻転生、因果律を潜在意識で認めている限り、自分を完全に赦していないのである。善行為・悪行為を監視する神はどこを探してもいない。あくまでも、自分が自分を赦すのか否か。問題はそれだけなのである。
 「過去はない」という宣言は「すべては赦された」という宣言である。また、それは「輪廻転生はない。因果律はない」という宣言でもある。この全否定につづいて、全肯定が起こる。『過去における自他の罪や汚れ、そして因果応報の法則を選択しない』で、『自らの内にある大光明』、神性のみに意識を向ける選択をするのである。『徹底的に果因説を握んで生きてゆく』のである。神人は因果律を手放し、果因説を選択し神性を顕現してゆくのである。
 「過去はない」という宣言は「神性復活」という宣言である。それは「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」という宣言でもある。
『  』はすべて白光誌10-01

40-11  「過去はない」2

40-11  「過去はない」2
『なぜ多くの方が、否定的な考え方をしてしまうのか。
 それは心の中に、未来に対するさまざまな不安や恐怖が潜んでいるからです。
 なぜ人は恐れを抱えたまま生きているのでしょうか。
 それは自分の未来が見えず、いつ何が起こるかわからないと思っているからです。
 そればかりか、自分はいつか過去にしたことの報いを受けると頑なに信じてしまっているのです。
 これは因果律に起因します。』(12-06)
未来が見えない人間の生き方は、未来を意のままに創って行く神的生き方とは真逆である。ここでは、迷いの根源は無知(無明)と言わず、因果律とされている。この因果律の因は過去にある。因果律の生き方は、「過去を基準に未来を予想してゆく、過去によって未来は決められてしまう」という世界観である。その生き方では、どのように未来を描いたとしても過去の陰から抜け出せない。『人類はこの因果律を何の疑いもなく受け入れ、それらに翻弄されて生きてきた』(12-06)。つまり、人類は過去の力を思い込みによって作り出し、その過去の力に翻弄されてきたのである。人類は過去の自己像を基盤に自己にふさわしい姿を想像した。そして、自己の創造力でその姿を現実のものとし、体験しつづけてきた。
そういった生き方とは逆に、『果因説は、過去の因縁因果の法則を超越して生きられる方法ですから、これが判れば、過去に縛られる必要が全くなくなるのです。そして自分の現在未来をいかようにも作り変えることが出来るのであります』(12-06)。
まずもって、果因説を生きる人は、「いかなる苦悩も甘受すべきもの」とは考えない。『いかなることが生じようとも我々の言霊の偉力により必ず大災難を光に変容させ、小難にして見せる』(12-08)という気持ちに徹する。さらに、『どんな状況、状態においても自らの心が常に究極の真理そのものの状況、状態即ちすべては完璧、欠けたるものなし、大成就に向けられているならば、宇宙神の法則通りに完璧な世界そのものが顕現されてくるのである』(12-08)(注1)。
五井先生は「般若心経」の解説に当たって『この界(神界、自由自在の境地)に入れば、自己の想いのままに、すべてを現出せしめ、すべてを消滅せしめ得ることになるのです』(注2)と説かれた。この空即是色の境地など、悟った後のことだと思いがちである。それを、「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」と唱え、宇宙神の波動に合わせるならば、完璧な世界を顕現できると西園寺会長は説かれたのである。真理は悟った後の特別な世界のことではない。真理とは、すべての人のありふれた日常の中で選択することが出来るものである。
注1  『宇宙神の法則』  07-07にも同様の記述がある
注2  五井昌久著『非常識・常識・超常識』「色即是空・空即是色」

40-10   「過去はない」1

40-10   「過去はない」1
「過去はない」。このフレーズは2017年6月の行事だけではなく。何度も繰り返される重要なテーマである。この「過去」とは神性顕現を妨げる要因の総称である。時に、「過去」は罪、現象、潜在意識、固定観念、低い自己評価とも言われる。また、因縁因果、不完全性の認識、すべての人間関係、すべての五感・六感による認識、すべての肉体・幽体・霊体経験とも言い換えることが出来る。
2016年7月大行事では、「手放せていない過去と現在の想い、未来に抱く不安恐怖を自ら浄める行」を行った。そこでは、『本来罪はない、あるのは愛のみ、光のみ、真理のみ』と唱えた。『この文中の罪という言葉にすべてが含まれている』(16-09)と説明された。この「本来罪はない」というフレーズは「過去はない」と同趣旨である。「罪はない」という宣言は「すべては赦されている」という宣言と同じである。何故この宣言が大事なのか。それだけ、人間は過去の体験を基に自他を責め裁き、「批判、非難、評価」を下しているからである。
『自分が普段掴んでいるものは、神性か現象面か。この二つしかないのです』(15-12)。この場合の「現象面」も「過去」と同趣旨である。ここで注目すべきは、神性or現象、神性or過去という構図である。これは哲学的な二元論ではない。日常的に行う二者択一の選択肢である。「現象、過去」という妨げるものを選択しなければ、人は神性そのものなのである。同様のフレーズは以下のように多様に存在する。
人間は『自らの固定観念で自らを縛りつけ』ている。(08-06)
『人間は不完全なる者、ひ弱な者、至らない者といった迷信』(00-09)
『生命というものは何でもできる力を持っています。自分に固定観念さえなければ』。
(14/11/24)
『今までの自分は、因縁そのものの自分を自分であると認めてしまっていました。』(99-04)
『人は消えてゆく姿の現象そのものに決して同一化してはならない。人が同一化する唯一なるものは神なのである。』(03-09)
五井先生の教えの根幹は「消えてゆく姿」である。「過去はない」も「すべては消えてゆく姿」と言うことである。他にも五井先生の著書にも同様のフレーズは多々ある。以下はその一例。
『統一の最高境地には、肉体観念は勿論、幽体観念、霊体観念を解脱し得た宇宙即自我、自我即真理という境地があるのです。自己の中に一切があり、一切の中に自己が在る、すなわち実在そのものという境地なのです。その境地を釈尊は空即是色といっているのです。』(『色即是空・空即是色』  著書『非常識・常識・超常識』)
「色即是空・空即是色」と宣言するよりも「過去はない。我は神性そのもの」と言った方が遥かに解り易い。「空の境地」と言えば、悟ったのちの世界と想い込んでしまう。「過去はない」と言った方が実行し易い。              

40-9  7月大行事の流れ

40-9  7月大行事の流れ
 行事の基本にあるのは『会員の人生を変えて初めて地球の安寧、世界の平和、人類の幸せというものが成り立つ』(2012)という個人人類同時成道の考え方である。
 次に重要なのは、問題の核心は低い自己評価とされていることである。そもそも、人は自己評価が低い。自己を神として評価していない。生命そのものとして評価していない。2013年行事ではその評価の逆転がテーマとなる。究極の真理から言うと『我々の生命、私の生命、あなた方の生命は神の生命なのです。神の生命です。神の生命そのものを受け取っている自分が、出来ないなどということはない。不可能なことはない。ダメなことはない』(2013)。『自分の意識が自分の人生すべてを創る』のだから、『不可能にするのは自己限定の想いです。自分はそれに値する価値がないと思い込む。それが一番の問題です』(2013)。
 次の2014年には、低い自己評価から抜け出すために「冷蔵庫」の比喩が語られる。ここでは神性が内にあることと、それを人類に顕現してゆくことが天命であることが語られる。
『神性復活のために祈っている人たちの冷蔵庫には、今生で生きるすべてが整っています。もう成就したものが出来上がっているのです。
神性復活の入った冷蔵庫の扉を開いて、まず自分が豊かになり、健康になり、自信を持ち、自分の考えで自分の選択をし、それに自己責任を持って、人類に神性たる姿を示してみせるのです』。
『神が与える、五井先生が与えるのではないのです。全人類が一人一人の責任において自分の未来を、世界を築いてゆくのです』(2014)。
 2015年には、自己評価を低くしている過去は行によって消し去られた。
 『あなた方の過去はかき消された』。『宇宙神、および五井先生、神々が、過去のしがらみ、未だに把われていること、現在、未来に描かれ、現れて来るそのすべてを書き換える』。『
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就の天地を貫く宣言通りの人生が開けてゆく』。
 さらに、あらゆる生命体に人類を代表してお詫びし、最後は地核の調和のための行をした。
2016年、参加者は『本来罪はない、あるのは愛のみ、光のみ、真理のみ』を唱えた。「すべては赦されている。内には神性しかない」と言う意識を強化した。それによって、自己評価を低くする過去の罪意識を消し去った。続いて、「人類の神性を讃え、故に自らの存在を讃える行」を行った。
『人類即神也 人類は神性にして崇高なる存在そのものなり すなわち、人類の意識は、本来神聖にして崇高なるものなり  (中略)  ゆえに、我即神也、すなわち0000即神也  私の意識は、本来神聖にして崇高なるものなり  (省略)』と参加者は唱えた。結果、第五次元の扉が開いた。
五次元とは『自分が神性そのものであるということをふっと思い出す。思い出さざるを得ない』とされている。自分を神ではないとの思い込みを打ち消すための「我即神也」ではない。今後は「神性を顕現し、人類を導いてゆこう」という出発点としての「我即神也」がクローズアップされて来るのだろうか。                 
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