42-1「過去はない」19

42-1「過去はない」  自己認識

宗教の目的の一つは真の自己を見出すことである。

『真理の書を繙くことによって、初めて真の自己に出会うのである。聖なる自己を発見できるのである。今まで自分が自分と思い込んでいた自分は、すべてが錯覚の自分、偽りの自分、幻想の自分であったことに気づくのである。

 真実の自分、本来の自分を知ること、そしてその心の変革は、たとえようもない歓喜そのものである。至福そのものである。』(11-08

 

 「過去はない」は自己認識の問題でもある。輪廻転生の中では、『私(I am)』は過去来の現象界の姿、形、想念なのである。「過去はない」とは、そんな認識そのものが、思い込み、錯覚、偽り、幻想であるということである。『私(I am)』はそんな過去の姿に染まるような存在ではない。『私(I am)』はそのような過去から分離されているものなのである。過去の姿は錯覚に過ぎない。過去の姿から罪は生じていない。過去のすべては赦されているのである。

 『私』が「体験した過去はない」。それでも『私(I am)』は在る。神性と共に在る。『我即神也』(I am god)なのである。「凡夫の自分がどうして神なのか」という疑問の生じる方もおられる。そう言う方には、『私(I am)』、過去の姿、神性という三要素に分けることをお勧めしている。『私(I am)』は各人の固有の自己意識である。「過去はない」は「自己意識が過去の姿に同一化することは間違いである」と言う意味である。過去があったとしても、それを引きずる必要は一切ないということである。因果応報などと言って、過去の償いを自分に強要するのは、法則ではない。あくまでも自分の捉われ、固定観念に過ぎないのである。自己意識が過去の姿に同一化しなければ、自己意識は自ずと神性に同一化しているのである。自己意識は、元々宇宙神から直接生起したものだからである。

 『私(I am)』は宇宙神の嫡子なのだが、肉体界幽界においては、本来の自由意志に基づき現象・体験を自己と誤認識することは出来る。それが複雑な因縁因果を連鎖的に生み出す。しかし、誤認識以降の因縁因果のすべては過去であって、自分が再び掴まない限り虚構に過ぎない。この見えている世界は、過去に掴んだものが虚構として現れつつ消えてゆく世界である。現象界は過去の結果が顕れて消えてゆくスクリーンなのである。我々はスクリーン上に閉じ込め込められているようだが、「過去はない。過去に基づく現象は消えてゆく姿である」と認識することは出来る。尚且つ、この見えている世界とは関係なく、我々は「我即神也」と宣言し印を組むこともできる。

 この事実そのものとして見える世界は実は幻想である。かつ、この見える世界とは似ても似つかぬように感じるかも知れないが、神そのもの神性そのものこそが自分自身なのである。見えない世界、手の届かない世界こそが幻想ではなく、厳然と存在する事実の世界なのである。我々はその世界と五感では接触できない。しかし、我々は印、言霊を使って、その世界と共振共鳴することが出来る。     

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41-14「過去はない」18  固定観念から神性意識

41-14「過去はない」18  固定観念から神性意識へ

 『輪廻転生を繰り返しているうちに、人間一人一人は本来の神性意識を忘れてしまったのです。その神性意識に取って代わったのが固定観念です。』

 宇宙の基底、人間存在の基底にあるのは神性意識しかない。神性意識は汚染されたり、棄損されたり、減少することもない。神性意識は時間を超えて輝き続けている各人の本心である。しかし、肉体幽体の世界では、その神性意識は忘れ去られてしまったのである。それに代わって人間意識を覆ってきたのが固定観念である。

 神性なるものは時間軸を超えている。固定観念なるものは時間軸の中にしかない。神性なるものが時間軸の中に顕れるとすれば、神性顕現、空即是色である。神性なるもの以外に時間軸の中にあったものは、固定観念の産物である。それらはすべて本来性のものではない。「消えてゆく姿」である。それらはすべて過去である。それらは複雑に絡み合った糸のようなものである。一つ一つ糸を解きほぐせば、何年かかるのか想像もできない。それでも、一つ一つやってみよう。これは「消えてゆく姿」の行である。

 「消えてゆく姿」の実践に明け暮れた神人に降ろされた真理が「過去はない」なのである。

糸を絡み合わせているのは実は自分の意識でしかない。「過去はない」「絡んだ糸はない」を選択するのか、「過去のない人はいない」「現実に糸は絡み合っている」を選択するのか。それは個々人の自由なのである。「消えてゆく姿」に慣れない人が、「過去はない」と言われても対応のしようがない。神人は「過去はない」と言われ、気持ちよく背中を押されている

ように感じるのである。神人は今まで掴んできた過去を手放し、神性顕現の道に進めるのである。

 『病をつくり上げたのは人間の低次元意識です』。『それら(貧乏、飢餓、病気)は、ない。本来ないのです。天から見れば、何でそんなくだらないことで悩んでいるの?

何でそんなところにエネルギーを注ぐの?』となる。低次元意識は固定観念であり、時間軸の中で創られた産物、つまり「過去に基づく産物」に他ならない。「過去はない」ならば「低次元意識もない」「低次元意識がつくり上げたすべてはない」のである。

 低次元意識が創り上げる現象は噴出するかもしれない。しかし、『その現象面を掴んで、ああだこうだと批判、非難することは我々は必要ありません。ただ黙って、世界人類が平和でありますように、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就と祈っていればいい。この言霊はすべてに行き届きます。(中略) なぜならば、次元を超えて、人類のために素晴らしい働きをする“人間のエネルギーを持った真理”だからです』。

 “人間のエネルギー”とは肉体人間が唱えた言霊のエネルギーである。神様だけでは、なかなか人間に届かない。人類の救済というところでは、かつては過去を持ち、肉体という媒体を纏った神人が絶対的に必要なのである。しかし、「過去はない」という真理によって、益々神人の肉体は浄化されてゆく。そして、「過去はない」という神人が発した真理の言霊が遍く人類全体にひびき渡って行くのである。人類全体の神性意識が蘇ってくるのである。

    『  』はすべて(13-03

41-13「過去はない」17  事の順序

41-13「過去はない」17  事の順序

 『現象は幻です。お金がない、病気だ、それらは幻です。ガン、それも幻です。自分が神性で光り輝けば、幻は一瞬にして消えます。それを信じないのは固定観念です。毒された意識です。』(15-12

 過去の力によって現われていたものは幻に過ぎない。自分を取り巻く状況がどうであれ、自分の神性を掴み、信じるならば、幻は消えてしまう。過去を掴むことによって、マイナスの状況が幻として生じる。「過去はない」と捉われを放つとき、本来ある神性を掴むことが出来る。自分が神性で光り輝くとき、幻は消え去る。

 ここで重要なのは。事の順序である。一般通念では、「幻を消してゆけば、神性が顕れる」と考える。しかし、果因説の真理では、「自分が神性で輝けば、幻は消える」となる。先ず何から始めるのか。これは重要な問題である。

 

 祈るときにも事の順序というものがある。真の祈りでは、『神性と共鳴する言葉』を使うことが要求される。『これからはいちいち病気が治りますように。お金が入りますように、結婚ができますように、ではないのです。病気が治らない自分、お金がない自分、結婚できてない自分を認めているのが願望でしょう。そのマイナスの現象面を掴んでいることになる』(15-12)。

 言葉は重要である。ほんの僅かな言葉の使い方の違いの中に、大きな意識の違いが隠されているからである。しかも、無意識に言葉を選択する当人は、何故その言葉を選んだのかについては明確に分かっていないことが多いものである。

 祈るときは、現状把握から始まる改善願望と上昇志向ではいけない。現状把握とはマイナスの現象面を掴むことである。マイナスの現象面は過去の結果であるから、マイナスの現象面を掴むことは過去を掴むことである。自分自身に『神性なのよ、もう過去はないのよ』(15-07)と言い聞かせて、『神性と共鳴する言葉』を使う。その代表が、「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」である。『神性と共鳴する言葉』を語れば、神性を顕現させることが出来る。その時、マイナスの現象は消えてしまうのである。

 世間一般的には熱烈な願望がよしとされる。先ず、願望をはっきり語ることがよしとされる。それとは違って、果因説で第一に為すべきは、神性の世界の完璧性と共鳴する言葉を語ることである。願望ではない。向上ではない。改善ではない。障害物をなくすことではない。神たる完璧なる自分と共鳴する言葉を語ることから事を始めるのである。

 また、言葉をかけるのは自分自身だけではない。周囲の人や、人類全体に対しても同じである。『さまざまな人に神性と共鳴する言葉をかけてあげれば、過去は消えてゆきます。なぜならすべてエネルギーですから』(15-07)。嫌な相手に『有難うと言う。思いやりの言葉をかける。これが自分の過去も相手の過去も消す神性なる選択です。神性の復活へ導くための選択なのです』(15-07)。

41-12 「過去はない」16 そこに残るもの

41-12 「過去はない」16  そこに残るもの

『“神と自分たちは分離しているものではなく、全く一つに結ばれている”

 “今まで起きたことのすべては、この世における幻想であった”』(09-11

『三次元世界に生じるすべての現象、状況、状態は、すべて過去の結果であり、即ちそこは原因の世界ではなかったのである。』(09-11

 三次元世界に限定されて生きるということは、人間からすれば当然のことであって、最も自然な在り方のように感じる。しかし、それは実は思い込みに過ぎない。そのような世界は、自我が造った自我自身が生きながらえるためのシステムに過ぎない。自我は自己を再生産するために、自己に現象というスクリーンをスクリーンとしてではなく現実だと思い込ませなければならない。自我は自己にスクリーンの姿こそ自分自身だと思い込ませなければならない。人間は心に浮かんだ想念を自分だと思い込む。そして、現実世界の姿を自分自身だと思い込む。人間にとってこれほど当たりまなことはない。

しかし、『すべての現象、状況、状態は、すべて過去の結果である』。そして、「過去はない」ならば、「すべての現象はない」ことになる。『すべては、この世における幻想』なのである。五感、六感による認識はすべて宇宙の基底に根差したものではない。一つの思い込みの世界なのである。

 今日までこの現象という幻想に騙されていようが、『私』という自己意識は常に存在する。「我即神也」ということは、この騙されつづけてきた『私』であっても、何もしなくても、『私』という意識は神そのものであることを意味する。『私』にまつわる現象が人間社会の基準から判断して平均的であろうが、平均以下であろうが、平均以上であろうが関係ない。すべての人の『私』は神そのものなのである。過去はなく、現象は消え去るものであり、罪は生じていない。つまり、すべては赦されているのである。

すべての人の『私』は神であることが変わらぬ事実なのである。『私』は宇宙神の子であり、直霊神である。力まずとも、当然の如く神性が無限にあふれ出ている神そのものなのである。そのような自分の本心の姿を霊視する必要もない。神の片鱗が全く出ていなくてもいい。ただ、自分が自分自身の神としての姿を想像できればいい。神としての自分が言いそうなことを語ればいい。それが言霊である。祈りである。言霊、祈りを、言語を使わず体で表現したものが印である。印が表現することは、たとえ表面意識では理解できなくとも、深い意識では理解できるのである。そして、人類全体にまで伝えることが出来るのである。

「過去がない」という宣言は強烈である。この宣言は過去の一コマ一コマを消しているわけではない。過去のすべてを崩壊させているのである。それは現象界のすべてである。それはすべての認識である。すべての思い込みも崩壊させてしまう。すべての自己像も崩壊させてしまう。今まで自分だと思っていた自分のすべても崩壊してしまう。すべての価値基準も崩壊してしまう。そこに残るものがある。そこに輝くものがある。それは生命そのもの。「我即神也」そのものである。   

41-11 「過去はない」15 「仮想したものが現実となる」

41-11 「過去はない」15 「仮想したものが現実となる」

人間には二つの遺産がある。カルマという過去の負の遺産と神性という宇宙神から受け継いだ遺産である。自分の手は神性という遺産に染まっている。カルマなどという負の遺産は、自分が掴まない限り、流れ去っていくものである。自分が掴んでエネルギーを与えない限り、自然消滅するものである。自分が掴んだものを放さず、自分自身のことを汚れていると思い込む限り、幻影は幻影でありつづける。自らの手が幻影を掴まない限り、自らの手は神の手そのものである。自らが神そのものである。

過去の負の遺産を基盤に生きるのが因縁因果、輪廻の生き方である。他方、宇宙神から受け継いだ神性という遺産を基盤に生きるのが果因説の生き方である。生き方は二通りだが、現実世界の創造原理は一つである。「仮想したものが現実となる」という一つの原理である。負の遺産といえども、仮想しなければ現れない。宇宙神の遺産といえども、仮想しなければ顕れない。否定的仮想はすべて過去の負の遺産に基づいている。従って、「過去はない」と説かれたのである。否定的仮想に流される習慣に代えて、光明の仮想をする習慣を創るのである。仮想が現実に先立つ。想像は創造に先立つとも言われる。

輪廻する人生では、仮想の根拠は過去にある。因果説では、仮想の根拠は光明思想の信念にある。光明思想の根拠は過去になく、現象界にはない。それは宇宙の基底にある。それは、“今”在り、永遠に在る。この宇宙の基底にある事実を宣言し、表現し、イメージする。それが祈りであり、言霊であり、印である。従って、真の祈りは願い事ではない。真の祈りは、現象界の様相が何であれ、神界における事実を、あるがままの事実として宣言することである。「祈りとは生命の宣言である」と言われるのはこのことである。ここで言う宣言は即創造、即体験である。

神界における事実は、現象世界の幻想の姿とは異なる。また、それは五感で知覚することもできない。そのため、神界における事実は想像するしかない。つまり、仮想するしかないのである。しかし、その仮想こそが神性顕現の鍵なのである。明確な仮想は言葉によって表現される。言葉で表現され、仮想されたイメージは、自らの無限なる創造力によって必ず現象化する。

人間が最も惑わされるのは、目に見える現象世界は幻想であり、目には見えない神界の姿こそがあるがままの真実の姿であるというところである。現象世界の痛み苦しみは正に現実である。神界の喜び、安らぎ、幸せは感じることができない。しかし、このような認識そのものが過去の負の遺産の結果なのである。現象も消えてゆく姿。感情想念も消えてゆく姿。ならば、経験そのもの、認識そのものも消えてゆく姿なのである。痛み苦しみは現実的に対処するのは当然だろう。現実的に対処しつつ、現実世界は「消えてゆく姿」と観ずるところに飛躍のチャンスがある。「消えてゆく姿」で切り返し、「我即神也、人類即神也、すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」の世界を仮想するところに神性顕現が成就する。「過去はない」はこの「消えてゆく姿」を包含している言葉である。

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