39-5  「変容する」

39-5  「変容する」
 東洋医学に従事している方から話を伺った。東洋医学では果因説に通じる考え方をする。その話:人の体は元々完璧である。鍼灸によって、その完璧な状態へ戻そうとする。病気と闘うわけではない。症状を抑え込むわけでもない。施術によって血流がよくなったり、治癒力が活性化されて、体は自分の力で元に戻ろうとする。
この話、果因説に通じるところがある。「変容する」という高次元の真理が降ろされたのは、2004年7月大行事のことだった。
 『“浄める”とか“なくす”というのは、未だその対象を認めている段階です。本来、真理には善もなければ悪もない。二元対立はないのです。(中略)変容というのは、カルマを光そのものに変えることで、なくすことではないのです。二元対立を認めていない。本当に今まで説かれたことのない真理なのです。』(2004/07/04)
 果因説も東洋医学同様、「我即神也」「世界人類即平和也」が根底にある。元々、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」なのである。祈りも印も不調和と闘うわけではない。不調和を抑え込むわけでもない。元の姿を思い出せばいい。そもそも、“浄める”とか“なくす”という時、その対象を認めている。果因説では、対象を認めること自体を承知しない。この辺りは古い白光の発想とは根本的に異なるところである。
 しかし、この“変容”の真理は唐突に現れたのではない。この少し前には、“変容”の真理の原理が説かれていた。
『闇は単に光の欠如なのです。苦しみや悲しみは、真理の欠如なのです。苦しみや悲しみをつかめて対立するのではなく、そこに真理を注ぎ込めば、暗闇に光が灯るように、明るくなるのです。過去の苦悩や悲しみや不調和は印を繰り返すことによって、なくなってゆくのです。これが究極の真理です。』(2004/02/08)
 東洋医学では、病を認めるわけではない。鍼灸などは、本来の完全完璧に共鳴する術を施すことによって、完璧さに戻そうとする。それと同様、悪人の姿は永遠ではない。その人そのものは神魂である。闇のように現れていても、神魂に共鳴する光の波動を送ってあげるならば、光が灯り始める。そして、その人は真理を思い出すことが出来る。
 カルマを実在、闘う対象と認めて浄める姿勢は因果説の立場である。神魂を認めて、本来の光を灯そうとするならば真の愛である。真の愛は、仮象のカルマを変容してしまう。神魂を認めるからである。闇に攻め入り、闇を追い込んでも、光は灯らず。光を灯せば、闇は消える。カルマを攻めている限り、光なし。愛なし。印の光と愛が届くところ、カルマは変容される。この“変容”の真理は今日でも降ろされつづけている。
 『神性のみを見る!五井先生がその神性に大きく光を当ててくださいます。過去を消すのではないのです。自分が神性を見つづけていくと、過去は自然に、五井先生が消してくださらなくても消えるのです。』(17-02)
 『それ(習慣化した想い)を消す必要はない。この(宇宙究極の)エネルギーで溶かすのです。』(17-03)                        
スポンサーサイト

39-4  権能の力を与えてはいけない

39-4  権能の力を与えてはいけない
 『権能の力を与えてはいけないのです』(96-10)とは、しばしば言われることである。それでは、人類は誰に、何に権能の力を与えていったのだろうか?先ずは、人類は外なる神に権能の力を与えてしまった。つまり、神と人間のダイレクトなつながりに分離が生じてしまった。そうなっても人が直霊、分霊であるという本質に変わりはない。しかし、自分は神ではないという思い込みがカルマとなり、それが今日に及んでいるのである。人類は『神や他に依存し、縋り、解決を求めてきた。または神に、他に自らの権能の力を与え、自らの能力をますます低下させていった』(02-10)。しかし、『自分以外の神を崇め、神を尊び、神を祭り上げる時代は終わったのです』(96-04)。『宗教に頼る生き方は卒業しなければなりません。偶像崇拝、他に権能の力を与える生き方、神を外に求める生き方を卒業する時が近づいてきました』(97-02)。
 本来、人は神として自由意志に基づき、自ら選択ー決定ー決行し、成就をつづけてゆくことができる。仮に思わしくないことがあっても、自己責任を取る生き方が求められている。しかし、自ら神に権能の力を渡してしまった人類は、不完全意識、無力感から他者にそして物質にまで権能の力を与えてしまった。『大衆は、自分自身で思考し選択し、決定できるほどの力が備わっていなかったため、権力ある者の手に自らの権能の力を委ねてしまっていた』(03-05)。『人類は本来の“個”を滅し、世間のしがらみの中に没していきてしまっています。民族も人種も宗教もしがらみ以外の何ものでもありません。すべての権能を世間に捧げてしまい、世間の言うなりになって生きている始末です』(99-07)。『共同体の意見に従うことによって、彼らに責任を任せ、権能を与えてしまう生き方』(99-07)がつづいてきました。また、時の権力者にとっても、大衆に無力感をもたせた方が支配しやすかったのです。
 物質文明の発展とともに、人類は物質の世界に関心を高めて行った。それと同時に、心の力を見失ってしまった。そして、『我々人類は物質にすべての権能を与えてしまったのだ』(94-04)。
 人類は外なる神に、権力者・世間に、そして物質にまで権能の力を与えてしまった。自らの不完全意識、無力感がますます自らを不完全、無力にしてきたのである。人類は縦(神と人間)に横(人間世界、地球世界と人間)に本物のつながりを見失い、偽物のつながりを構築してきたのである。
 二十一世紀、我即神也によって縦に本物のつながりが復活し、人類即神也、地球世界感謝行によって横に本物のつながりが復活するのである。そこには無力さを感じる者が他に依存する姿はない。他と奪い合い、競争し合う姿はない。神の無限なる能力を感じ、発揮する者が自立し、他と共創し合うのである。自分の他に頼る者と蔑む者がいるわけではない。お互いに尊敬し合い、讃え合うのである。我即神也は真の自立をもたらし、人類即神也は真の調和をもたらす。神性は宇宙神の神性であるから一つである。人類は一つであって、その個性は多様である。宇宙神の神性は一つであって、多様である。無限なる感謝。

39-3  鏡菩薩の話7 鏡像の鏡像は本物

39-3  鏡菩薩の話7 鏡像の鏡像は本物
鏡の像は実像に比べて左右反対である。鏡の像をもう一度鏡に映すと、実像に等しくなる。この原理はマイナス×マイナスはプラスになるのと同じである。「にもかかわらず」の原理を二度繰り返すと、本物になる。
迷いの世界の始まりについて次のように言われている。
『自らの内部には、無限なる能力が厳然と存在するにもかかわらず、無意識のうちに、その能力の上に限界という境界線を引いてしまうのである。』(05-02)
『人類の自由は無限大である。しかし、人類一人一人がその無限なる自由に対して、自ら限定しているのである。
人類の能力は無限大である。しかし、人類一人一人がその無限なる能力に対して、自ら限定しているのである。』(04-12)

実像とは異なった虚像の世界へ移行する入り口、つまり失楽園の入り口には道しるべがある。そこには「にもかかわらず」=「しかし」という言葉が書かれている。そこで人類はカルマと言う負のスパイラルに巻き込まれてしまったのである。現状の世界は、虚像の世界なのである。虚像の世界の何が問題なのか。左右逆転の比喩は、自己認識の反転問題なのである。自分自身は神そのものであるにもかかわらず、『人間は不完全で罪深く汚れているものであるという認識』に陥ってしまったのである。人類は真の自分を見失ってしまったのである。輪廻のカルマの正体とはこの誤認識に他ならない。この誤認識が自己の無限なる創造力によって、誤認識のままの不完全な世界そのものとなって展開していったのである。そのような人類に真理は語り掛ける。
『あなたは偽りが真実だと思い違いをしていたのです。あなたの今の人格そのものがあなた自身だと思い込んでいます。だがしかし、それは誤りです。偽りです。』(95-05)

先ほどと同様に、虚像から実像の世界へ戻る出口、つまり失楽園の出口にも道しるべがある。そこにも「にもかかわらず=しかし」と書かれている。それは今日まで、「どんな困難の中にあっても、すべては消えてゆく姿である」「我即神也」「すべての現象は人類即神也を現わすためのプロセスである」とも説かれてきた。いずれも、「人類は凡夫の様相を現してきた。それにもかかわらず、人類は神そのものなのだ」と言う意味である。
虚像の世界を掴んで何をするのではない。実像の世界を呼びつづければいいのである。大切なことは次のことである。人間は不完全に見える。しかし、実のところ『人間は不完全なものではない。完全なものである。この事実を自分で認めてゆくことです』(95-08)。失楽園の入り口にあった「にもかかわらず=しかし」は「本心を忘れて現象を掴む」ことであった。出口にある「にもかかわらず=しかし」は「本心を思い出して現象を掴まない」ことである。この原理の最高の実践方法が祈りであり、印であり、呼吸法である。                             

39-2 鏡菩薩の話6  進化創造とは

39-2 鏡菩薩の話6  進化創造とは
『進化創造とは、今、仮に自分が不幸であったり、病気であったり、貧困であったり、不調和であったり、あらゆる難題を抱えていたとしても、、、、、、これらの状況、環境、状態を、印を組むことにより自らの内なる無限なる能力を発揮させ、自然に解決に当たるということである。』
 これが進化創造の定義である。苦しみは現わし尽くすことによって、無くなるのではない。状況を改善あるいは、解決することによって、本心が顕われてくるのではない。苦しみを通して、本心が出来上がってくるのでもない。神々に赦しと恩寵を祈り、それが応えられるのでもない。陰徳を積み、その見返りで、状況が良くなるのでもない。
重要なことは、いかなる状況にあっても、自らの無限なる能力、つまり本心は厳然と在るということである。本心を自らが認めてこなかったからこそ、苦しみが生じているのである。
本心を自らが認めることによって、神性が顕われ、苦しみは自然になくなってしまうのである。外なる神に縋るのではない。救ってもらうのではない。権能の力を与えるのではない。救うのは『自らの内にある神秘なる無限なる能力、叡智、直観』である。
 苦しんでいる人間が、進化創造によって神に変ってゆくのではない。進化とはダーウイン的な進化ではない。凡夫が努力と研鑽を重ねても神になるのではない。100点満点で30点の人間が、1点1点積み上げてゆくことによって、100点に達するのではない。自らが自らを神と認めることによって、初めから100点の姿を顕現してゆくことが進化である。
進化創造も鏡の原理を使っているのである。自らを人間とする固定観念が、苦しみ多い人間の姿を現わしているのである。そのような固定観念のないところ、本心の輝きだけがある。自らが描く自らの自己像、それが現象界の自分の姿なのである。これを鏡の原理と言う。その現われた姿を改善するのではない。人間の姿から、神の姿へ。心の中の自画像を描きなおすのである。誤った自画像を捨て去り、神の姿としての自画像を思い出すのである。自画像の変化とそれに伴う現象界の変化のことを進化創造と言う。我即神也の実体が進化することはない。それは宇宙神の創造で完璧そのものなのである。
不幸、病気、貧困、不調和、難題の中にあってさえも、自分のことを自分で神と認める。それが進化である。その結果、神の姿を顕現する。それが創造である。宇宙神の創造は完了、完成済みである。宇宙神は自らから直霊分霊を発し、光一元の世界を創造した。光一元とは、多様に見えて、宇宙神の自己一元のことである。そこに、各人の本心は被造物ではなく、神として輝いているのである。
宇宙神の創造と人類の天命としての創造とは異なる。宇宙神の創造に進化はない。人類の本質は太初めから、そしてこれからも神そのものであって、神以外にはなれない。それに対し、人類の天命は進化創造なのである。この進化とダーウィンの進化とは全く異なっている。人類の本質は神そのものでありながら、人類は自らの思い違いにより神以外の姿を現わしてしまった。その思い違いを正し、神そのものの姿を顕わしてゆく。いよいよ、この進化創造物語が本格化する。     『  』引用は(2002-10)   

39-1  鏡菩薩の話5  無限なる創造力のこと

39-1  鏡菩薩の話5  無限なる創造力のこと
自分自身についての観念が運命と現れる。これはカルマの法則と言うより、むしろ「自分こそが自分の人生の創造者である」ということである。『人類はみな、誰もが一人残らず自分自身を創造している神だ』(注1)。人類は自分自身の神性を見損ない、自分自身を人間として創造してしまった。しかし、物質界の創造は絶対的な創造とは異なる。すべては修復可能なのである。人間の姿ではなく、本来の神性顕現を再開しさえすればいいのです。
神性顕現の鍵は言葉にあります。『自分の語る言葉はすべて自分自身に語られているということであります。言葉は、第三次現の世界に物質を現わすために必要だったのです』(注2)。言葉は神の自己実現つまり神性顕現のためのものです。自分が自分のことを表現するためのものなのです。言葉を発する神には、無限なる創造力が備わっているため、発せられた言葉はすべて実現するのです。言霊の力とは、自分自身に備わる無限なる創造力のことなのです。
自分についての観念であろうと言葉であろうと、それが真実であろうと虚構であろうが、自分の創造力は見事にそれを現実化してしまうのです。『それがポジティブであろうとネガティブであろうが、自分が本当に信じていることが自らの人生に実現する』(注3)のです。今日の現実の世界は虚構を基に作り上げられた虚実の世界なのです。人類が皆そろって、それが現実であると思い込んだ現実なのです。虚構を基にした現実ではなく、宇宙神が創造した現実の世界は厳然とあるのです。その厳然とある真実の現実をこの世に顕わす。それが祈りの目的なのです。人間を演ずる神が、神を経験する神に戻る時代になったのです。
言葉は心の世界を現実の世界に映し出す鏡なのです。良くも悪くも心の世界は、自分の無限なる創造力によって現実の世界に映し出される。祈りと印は神の世界を現実の世界に映し出す鏡なのです。『天の無限なる叡智を映し出す鏡』(注4)なのです。祈りや印によって、自分にとって都合がいい世界を実現してもらうのではないのです。真実の自分の姿、人類の姿を心で観て、宣言するのです。我即神也の姿、人類即神也の姿を観て、言葉で愛で、褒め称え、顕現するのです。我即神也の姿、人類即神也の姿は宇宙神が創造した世界にあるのです。完全平和の世界です。それは人間に備わった無限なる創造力、つまり『天の無限なる叡智を映し出す鏡』によって現実の世界に顕現するのです。そう、鏡の原理とは無限なる創造力のことなのです。
鏡は、内なるものを外なる世界に映し出す。自分が自分はこうだと思った観念は、物質の世界の体験となる。人間は自分の信念を体験しつづける。自分に備わった無限なる創造力は間違えたことなど一度もない。すべの信念を成就しつづけてきた。二十一世紀は、我即神也、人類即神也を成就する時代である。
あなたの願いを聞く神はいない。あなたの願うところを叶えるのは、あなたの無限なる創造力である。それが無限である限り、成就しないことはない。あなたは神なのだから。
注1  99-08 日々の指針   注2  98-09   注3  2011/12/04
注4  02-11  インフィニットワーズの詩35          2017/02/25
プロフィール

富士山直行

Author:富士山直行
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR