13-9 絶対なる真理3   自己責任

13-9   絶対なる真理3  自己責任
「宇宙神のみ心と人類の使命」と題する法話(02-08)では、究極の真理は「我即神也」「人類即神也」の生き方そのものと定義され、「絶対なる真理」は次の偈に要約されている。
この我即神也に至る道として、まず、

自らが自らを探求し、
自らが自らを真理に目覚めさせ、
 自らが自らを癒し、
 自らが自らを赦し、
 自らが自らを敬愛し、
 自らが自らを導き、
 自らが自らを救済する。

 『ここで言わんとしている一番重要なことは、自分に生じる一切のことは、すべて自分自身の蒔いた種であり、かつまたすべて一切のことは、自分自身の責任であり、自分自身の問題であるという事実である』と説かれる。
 この心の法則は、身も蓋もない話である。心の弱い人には、『到底耐えられないことであろう』とされている。『けれども、決して逃げおおせることは出来ない。いずれ、いかなる人もこの真実を受け入れねばならない時が来る』。責める思いの強い人にとっては、心の法則は責めを受けているように感じてしまうのである。しかし、自己責任といえども、偈にあるように、愛と赦しを籠めて、「消えてゆく姿」で受け止めればいいのである。一度、自己責任を認めてしまえば、『すべては自分自身が創ってゆく。自分の意識で、自分の思考で、自分の信念で、、、』という法則を未来に向けて駆使ゆくことが出来る。創造主の立場に立つことが出来る。果因説の道が開けてくるのである。
 『自らのことは、たとえ何があろうと、起ころうとも、すべて一切自らの責任であるし、自らが責任を取らなければならないのである。これが原理、原則である』。これは『根本真理』とも言う(11-03)。自己責任の原理は、自立の原理でもある。要求されていることは、責任転嫁だけでない。『たとえ一時、逃げたり、隠れおおせたり、かつまた他に縋り、委ねたとして現象的に解決されたとしてさえも、それは本当に解決されたわけではなく、単に先送りされただけのことで、何ら一切の解決はなされてはいないのである』とされる。起こったことには、自らの内なる力を発揮し、解決に当たらねばならないのである。
また、それだけではすまない。一人一人は自己の人生の全責任のみならず、『宇宙の大進化創造、大調和、万物一切』の責任も負っているのである。何故、そこまで責任が重いのか。それは各人が、宇宙神の光の一筋だからこそである。『まず人類一人一人がもっと自らの生命の尊さ、自らの天命、自らの生命について深く探求すべきである』。
スポンサーサイト

39-8  絶対なる真理2  自由意志と創造力

39-8  絶対なる真理2  自由意志と創造力
 前回見たように、「絶対なる真理」とは心の法則であり、それから派生する真理のことである。もう一つの事例を見ておく。
 『生命の尊厳』(01-02)では、「絶対なる真理」は、次のように「自由と創造力」に関するものとして説かれる。
『すべては自由と創造から成り立っている。人類に与えられている平等とは、自由と創造力そのものだ。
この自由と創造力は、皆が考えている以上の働きをする。それは、その無限なる能力を信じ、プラス思考ですべての物事を創造してゆくならば、その人の人生は、全く方向転換してゆく。そして、その力は大いに発揮されてゆく。
なぜならば、それこそが絶対なる真理そのものであるからである。
内なる無限なる能力を顕現することによって、自らの人生の輝かしい未来を創造してゆくのである。』(01-02)

絶対の真理の根幹にあるのが「自由と創造力」である。それは生命の権利とも言われる:
『神が人類一人一人に与えた生命の権利、自由と創造ほど尊いものはない。』(00-04)
また、それらを如何にして発揮してゆくかが人類の課題と説かれる:
『人類が天より与えられし無限なる創造力と自由意志、そして無限なる能力、それらの天賦の才をどのように発揮してゆくかこそが、今生を生きる人類一人一人にとっての大いなる課題なのである。』(06-01)

また、『すべては個人の自由意志という絶対なる法則に委ねられている』(04-04)とも説かれる。自由意志は創造力とともに特別に重要視される:
『すべてはこの自由意志に任されているのである。原因は同じでも、個々人の意志によって、違った結果が生じてくるのである。この自由意志というものには、すごい権限がある。真に人間を動かしているものの正体は、自由意志である。
結果に導くのは、他の力でもなければ、神でもない。あくまでも自らの自由意志によるものである。』(04-04)
この聖域には宇宙神さえ介入出来ないとされる:
『宇宙神は、人類一人一人の意志決定に介入することはなさらないのである。』(03-07)
『自由意志は、人類一人一人に与えられている素晴らしい叡智である。ゆえに宇宙神は、人間の意識や心を決してコントロールなどなさらない。たとえ、その自由意志が善にも悪にも応用されようとも、人類一人一人の責任と、自由意志を尊重しておられるのである。』
(06-01)
「我即神也」が「究極の真理」である。他方、「絶対なる真理」とは、その神なる人間が自由意志と無限なる創造力によって自分の人生を創ってゆくことである。

39-7  絶対なる真理1

39-7  絶対なる真理1
究極の真理とは、「我即神也、人類即神也」のことである。それとは別に絶対なる真理と言われる法則がある。この二つの言葉は白光誌では全く100%使い分けられているわけではない。“概ね”といったところである。両社とも何度も繰り返されていることなのだが、それだけ重要なのである。究極の真理とは本質論、認識論である。本質論は、現象の如何にかかわらず不変である真理のことである。それに対し、絶対なる真理とは現象論、行動原理である。それは今ある姿を説明し、あるべき姿を顕わす原理のことである。先ず、絶対の真理はどのように説かれて来たのか。
“心の法則”のことは、「個の絶対なる真理」「絶対なる法則」「全人類に課せられている厳然とした宇宙法則」と言われている(96-05)。心の法則とは:
『世の中と自分とは、はっきりと一線で画されているのです。  
あくまでも個人の運命のこと、自分自身の人生のことは、自分の心の法則のみを通じて繰り広げられてゆくのです。
世の中の情勢、状況、環境はすべて個の反映です。この結果によってもたらされるものです。今生は世界があって個が存在するのではなく、あくまでも個が先に存在し、そこに初めて世の中が形成されてゆくのであります。』(96-05)
この法則からすれば、社会環境、政治経済によって個が決定されるということはありえない。逆に、個の集積が社会を決定しているのである。人間はついつい、不都合を社会や他者のせいにしたがる。しかし、そんなことはあり得ないのである。すべては自己責任である。
心の法則は、「宇宙の法則」「想念の法則」とも言われる(97-02)。宇宙の法則とは:
『自分が望むもの、求めるもの、必要なものはいつでもどこでも何でも手に入ります。自分が認めさせすれば無限に入ります。そして無限に実現してゆきます。自分が少しでも否定すれば、かつまた認めなければ一切自分の手の中には入りません。』(97-02)
従って、宗教依存、偶像崇拝、権能の力の移譲、神を外に求める生き方は卒業しなければならないと説かれる。そして、二十一世紀はセルフサービスの時代と言われる。宇宙の法則からすれば、『あくまでも人生は自らが築き自らが創造してゆくべきものであります。他に頼らず依存せず、自らの内に輝かしき才能を見出して生きるべきなのです。(二十一世紀の到来とは)一人一人の生き方を一人一人が責任を負う、セルフサービスの時代であります。』(97-02)ということになる。
絶対真理とは『あらゆる現象の原因は、すべて自分自身の内なる心にある。その内なる心が外なる現象をつくり出している』ということとされる(05-10)。真に生きることは『自分自身を信じることから始まる。自分自身を信じるとは、すなわち“自分は運命に翻弄されるものではなく、自らの運命を支配し、創造してゆくものである”ということを信じることである』(05-10)とされる。絶対真理、心の法則=因縁因果の法則という単純な理解では事足りない。これは単に起きてきた物事を受容する法則でもない。神人が天命を完うしてゆく道そのものである。                          2017/04/17

39-6  次元上昇

39-6  次元上昇
 “業を浄める”立場から“輝かしい未来を地上に降ろす”立場への次元上昇は2006年に行われた。先ず、新年祝賀祭では次のように宣言された。
 『今年から、私たちは次元上昇するのです。私たちはもう過去を見ないのです。見ればそこに意識が行く。戦争を浄めようと思えば、戦争を認めたことになる。そこに矛盾が生じるのです。
 各国の平和を祈るけれども、それは浄めるためではなく、素晴らしい未来を現わしてゆくための祈りに変ります。
 過去ではなく未来に向かって祈りつづける神人が必要なのであります。神人たちは、輝かしい未来を地上に降ろすミッションがあるのです。』(2006/01/15)
 次いで、『“過去を浄める”というプロセスは卒業』(06/03/05)と宣言された。
 それまで人類の業を浄め、過去を浄めるために祈りつづけてきた白光のスタンスに慣れた人からすれば、実に大きな転換であった。それはそれで受け入れてはいるものの、今日でも“過去の業の浄め”が大好きな会員さんは多数いる。しかし、真に次元上昇を果たすならば、この大転換を真摯に受け取るべきであろう。
 この大転換が最も明確にされたのは、この年「歴史の浄め祭」が改められ「地球黎明祭」になった時だった。この転換は宇宙神の計画であったことが明らかにされた。
 『宇宙神はこれ以上、人類の意識を否定的な事柄に集中させるべきではないとお考えになったのです。テロや病気や貧困に意識を集中すればするほど、それらは広がるばかりで,
なくならない。それは想念の法則です。
 この地に限りなく宇宙神の世界を、限りなく神の世界を現わすために、この地球黎明際が始まりました。』(06/09/24)
 我々の組む人類即神也の印は輝かしい神の世界を地に降ろすためのものである。しかし、
『直接、世界の平和を創造するための印ではない
 直接、戦争や紛争をなくすための印ではない
 直接、飢餓や貧困をなくすための印ではない』
あくまでも、
『人類一人一人を本来の真我に目覚めさせるための印である
 人類一人一人を究極の真理に目覚めさせるための印である
 人類一人一人の内なる神性を引き出すための印である』
(06-06インフィニットワーズの詩78)
カルマを浄めることによって、本心は目覚めて行くものである。しかし、前提としてカルマを認めるスタンスに立つのではない。前提として、人類一人一人は、カルマを超えた神であるというスタンスで印を組むのである。業を浄めるのは因果説。神性を認め、称え、現実化するのは果因説。

39-5  「変容する」

39-5  「変容する」
 東洋医学に従事している方から話を伺った。東洋医学では果因説に通じる考え方をする。その話:人の体は元々完璧である。鍼灸によって、その完璧な状態へ戻そうとする。病気と闘うわけではない。症状を抑え込むわけでもない。施術によって血流がよくなったり、治癒力が活性化されて、体は自分の力で元に戻ろうとする。
この話、果因説に通じるところがある。「変容する」という高次元の真理が降ろされたのは、2004年7月大行事のことだった。
 『“浄める”とか“なくす”というのは、未だその対象を認めている段階です。本来、真理には善もなければ悪もない。二元対立はないのです。(中略)変容というのは、カルマを光そのものに変えることで、なくすことではないのです。二元対立を認めていない。本当に今まで説かれたことのない真理なのです。』(2004/07/04)
 果因説も東洋医学同様、「我即神也」「世界人類即平和也」が根底にある。元々、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」なのである。祈りも印も不調和と闘うわけではない。不調和を抑え込むわけでもない。元の姿を思い出せばいい。そもそも、“浄める”とか“なくす”という時、その対象を認めている。果因説では、対象を認めること自体を承知しない。この辺りは古い白光の発想とは根本的に異なるところである。
 しかし、この“変容”の真理は唐突に現れたのではない。この少し前には、“変容”の真理の原理が説かれていた。
『闇は単に光の欠如なのです。苦しみや悲しみは、真理の欠如なのです。苦しみや悲しみをつかめて対立するのではなく、そこに真理を注ぎ込めば、暗闇に光が灯るように、明るくなるのです。過去の苦悩や悲しみや不調和は印を繰り返すことによって、なくなってゆくのです。これが究極の真理です。』(2004/02/08)
 東洋医学では、病を認めるわけではない。鍼灸などは、本来の完全完璧に共鳴する術を施すことによって、完璧さに戻そうとする。それと同様、悪人の姿は永遠ではない。その人そのものは神魂である。闇のように現れていても、神魂に共鳴する光の波動を送ってあげるならば、光が灯り始める。そして、その人は真理を思い出すことが出来る。
 カルマを実在、闘う対象と認めて浄める姿勢は因果説の立場である。神魂を認めて、本来の光を灯そうとするならば真の愛である。真の愛は、仮象のカルマを変容してしまう。神魂を認めるからである。闇に攻め入り、闇を追い込んでも、光は灯らず。光を灯せば、闇は消える。カルマを攻めている限り、光なし。愛なし。印の光と愛が届くところ、カルマは変容される。この“変容”の真理は今日でも降ろされつづけている。
 『神性のみを見る!五井先生がその神性に大きく光を当ててくださいます。過去を消すのではないのです。自分が神性を見つづけていくと、過去は自然に、五井先生が消してくださらなくても消えるのです。』(17-02)
 『それ(習慣化した想い)を消す必要はない。この(宇宙究極の)エネルギーで溶かすのです。』(17-03)                        
プロフィール

富士山直行

Author:富士山直行
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR