FC2ブログ

48-7  想像力15   想像は本心に還る道

48-7  想像力15   想像は本心に還る道
『世界が平和になるためには、戦争をなくすことではないのです。人種差別を訴えることでもないのです。世界を平和にするためには、一人一人の心が本来の心に還ることにあるのです。』(10-05)
 世界平和のため、個人の救われに必要なことは何か?それは問題の解決ではない。問題点の確認でもない。カルマを浄めることでもない。現象世界の改善でもない。将来自分に戻って来るであろう徳を積むことでもない。外なる神に依存し、ご利益を依頼することでもない。必要なことは、人類一人一人が自己の神性に目覚めることである。思い出すことである。
『皆様方の原点は神の子なんです。素晴らしいのです。輝いているのです。自信に満ちあふれ、喜びを持って生きているのが自分の本来の姿なのです。』(10-05)
 世界平和、それは神界・霊界では成就済みである。人類一人一人も神なのである。悟ろうが、迷いの中にいようが、本心は神なのである。つまり、世界人類即平和也、人類即神也、我即神也。真理はそれに尽きる。その本心に還る。思い出すことが求められている。
『愛も幸せも赦しも能力も、みんな自分の中にある。気がつかなかっただけです。自分の中に素晴らしい能力がある。愛が満ちあふれている。赦しが、寛容がある。』(10-05)
 『にも拘らず、それを認めようとせず』、人類は自分自身を神の道ではなく、カルマの道を突き進んでいる。それでは、神人は何をすべきなのだろうか?本来神なのだけれど、それが見えない。しかし、想像することは出来る。自分が神であるのだから、高貴で光り輝き偉大な存在である、愛深いことを語る、世界の平和を思う、崇高なことを行う。そのように想像し、イメージすることは可能である。神として語ること、宣言することは可能である。神として語り、宣言しているとき、奥深い心は、自分=神のイメージを受け取っているのである。それは仮想であっていい。「我即神也」の真理に共鳴共振する姿であれば何でもいい。
 神の姿を顕わすためには、神の姿が顕われる前に、自分が自分を神と認めなめればならない。そして、自分が神である姿を想像しなければならない。自分が神であると宣言しなければならない。祈りとは、本来そういうものだったのである。
 完全性を顕わすためには、不完全に見えようと、自分が自分を完全と認め、想像し、宣言しなければならない。「私」は「私」がこうであると信じる姿を顕わす存在だからである。
神以外の姿は幻想である。神の姿こそ本心の姿である。「私」は本来神にして、神性のみを顕わす存在である。不完全な「私」が完全になろうとしてはいけない。つまり、現象界の改善を目論んではならない。現象界ではなく、意識界において「私」は完全なる神であると認め、想像し、宣言するのである。これが本心に還る道である。その認めた姿、想像した姿、宣言した姿が現象化するのである。

『常に自らが完全な状態、そして欠けたるもの一切なしという状況を強くイメージしつづけることによって、その通りの現実が創られてゆく。』(11-01 日々の指針)
スポンサーサイト

48-6 想像力14   選択と想像

48-6 想像力14   選択と想像
 状況がどうであれ、仮想不幸を選択するのか仮想幸福を選択するのか?
『どちらを選ぶかは全く本人の自由である。神は決して介入はしない。あくまでも本人の自由意志に任されている』(12-01)。『自由な選択こそが、人間に与えられた最も崇高な権利なのである』(13-01)。
 この選択する自由意志には自己責任が伴う。
『自らが決定したことに対して、誰もが厳然として自己責任を負わねばならないのである』(12-01)。
神人にはこの責任転嫁が認められない厳しい生き方が求められる。
『人生で起こることは、すべて自分の想念である。決して他ではない。他の責任など決してない』(12-01)。すべては、『自分の選択した結果、現われた人生なのです』(14-07)。
責任を取ることによって、自分が創造主であることを認識できるのである。責任を取るということは、自分を責めることではない。それは決して言い訳をしないことである。それは決して他を責めないことである。他に権能の力を与えないことである。自分の創造の誤りを認める。ならば、解決は簡単である。新しい選択である。つまり、望む状況をきちんと想像し、創造し直せばいいだけである。
誰にでも付きまとう否定的現象。否定的想念。それは「消えてゆく姿」として、次が肝心である。様々な状況の中で、『神人の選択の力こそが、世界を変えてゆく原点となるのだ』(13-01)。それでは、神人の天命、神人のなすべき選択は何か?
『目に見えないが、本来全人類に遍く内在せる心の崇高さ、愛、真理、神聖さ、無限なる能力、可能性、光明を蘇らせるための選択ほど尊いものはない』(13-01)。
目に見えない神性に意識を向けること、これが想像力である。想像し、意識を向けること自体が実現力となるのである。自らの創造が否定的状況をもたらしてしまった。ならば、神性の顕現した状況を創り出せばいいのである。かつては、神性顕現は「世界人類が平和でありますように」の祈りに任せるよう指導されていた。今日、神人の時代では、もう一歩踏み込んだ選択を要求されているのである。今後の自分の姿を決めてゆくのは、あくまでも自分の選択なのである。『それ(喜びと幸せと平和な未来)は神が与えてくれるものではない。自らの意識が創造していくのです』(16-03)。『自分たち一人一人が創るのです』(15-05)。
神人の神性復活の選択によって、『各人が自らの神性に目覚め、自己の内から無限なる力、無限なる可能性、無限なる愛がほとばしり、現われるのである。そして、自らが自らを“我即神也”と自然に尊び、歓喜するのである』(12-10)。『無限なる神性がほとばしり、あらわれる』選択とは、先ずその状況を望むことである。それが神界、霊界では成就していることを認めることである。眼に見えない神界、霊界の姿を追認する。そして、それが現実世界に顕現することを希求する。この追認と希求。これが真の想像力である。真の想像を繰り返すことにより、神性復活の印により、それは必ず成就する。大成就。

48-5  想像力13  仮想不幸から仮想幸福、そして実相

48-5  想像力13  仮想不幸から仮想幸福、そして実相
『困難な状況が苦しみを創造するのではないのである。』(09-01メッセージ、以下同様)

 ビジネスに成功する人が幸福になるのではない。心が幸福な人が成功するのである。逆の場合も同様である。客観的な状況が不幸を創造するのではない。問題はその状況で何を想像するかである。どう対処するかである。今日、宗教者だけがこのようなことを言うのではない。心理学者が調査、分析の結果そのような結論に至っているのである。一般に、人は自分が何であるかを知らない。幸福不幸が何であるかも知らない。如何に幸福を築きあげ、不幸を回避するのかも知らない。ただ、自分の思い込みによって不幸を恐れる。そして、闇雲に幸福を求めているのである。
人は想像したものを創造し体験する創造者である。苦しむ時は「消えてゆく姿」が分からない。状況を受容できない。抵抗を繰り返す。苦しみと悲しみから離れられない。『ある状況に対し自らが抵抗する時、自らの無意識の心が。過去の耐え難き経験により、今ある状況をさらに耐え難いものとして認識してしまうのである』。
苦しみ悲しみは不安恐怖を生む。不安恐怖は『最悪な仮想状況、仮想状態、仮想関係、仮想敵、仮想不幸、仮想重病、仮想不調和』を想像するよう駆り立てる。自らが自らのイメージした通りの状況にのめり込むのである。負の状況即不幸という思い込みにより、負の状況が現れると仮想不幸を想像してしまう。そして、いつの間にか、自らが不幸のさ中にいるのである。
それとは反対に、果因説を行じるとは、『いかなる負の状況であれ、仮想天国、仮想成就、仮想幸福、仮想調和、仮想天才、仮想健康を即イメージし、その状況を現実に創造してゆく』ことである。『自らの未来に対し、輝かしいことのみ、幸せなことのみ、善なることのみ、真なることのみ、愛することのみ、感謝のことのみ、神人としてのみの自分を仮想イメージすればするほど、いつの間にかその通りの人や物や状況になってゆくのである。それが果因説である』。
負の状況では、どうも自分の姿は神の姿とは言い難い。しかし、負の状況は「消えてゆく姿」である。本来、自分自身は神そのものなのである。敢えて、その真の状況の自分のことを思い描いてみる。仮想幸福、仮想調和、仮想健康の姿である。まるっきり根拠のない否定的状況の仮想ですら、現実化するのである。ましてや、真の姿を仮想するのであるから効果は絶大である。仮想したものは必ず実現する。真の姿を仮想するとは、実相の姿を想像するということである。想像したものは必ず実現する。人は自らの姿を想像し、創造する存在である。
この仮想、想像、あるいは宣言、祈り、、、、、、。これらはたとえ実相と異なっていようと実現してしまう。そのようにして無意識のうちに実現してしまっていたのがこの現実世界である。それを意識的に実相=我即神也に同調するように行うのである。そして、実現させるのである。それが果因説である。神人の生きる道である。  

48-4  想像力12 流浪の中でマイホームを想像する

48-4  想像力12 流浪の中でマイホームを想像する
 『意識の変革とは、人類の本来の意識に戻ることである。人類は本来、皆、幸福であるべきはずなのである。(健康、豊、平安も同様である)
 人類の本来の意識は、幸福で充ち足りた魂を基準にしているものである。』(01-05)
 『我々が最後に行き着く地点であるべき幸福を前提とし、平安を前提とし、永遠なる生命を前提とし我即神也を確信として語りつづけるならば、必ずその語りつづけた通りの状況をつくり出してゆく。それが宇宙の法則でもある。』(01-05)

 神意識は本来意識である。それは敷居の高いところにあるわけではない。父母が待つ実家というものではない。マイホームそのものである。人類は流浪の輪廻の中で、公園や駅を自分の居場所と思い込んでしまったのである。肉体意識、人間意識は本来意識とは全く異なったものになってしまった。しかし、厳然とマイホームはきれいなまま残されているのである。
マイホームに戻るのに何の制約もなく、何の遠慮もいらない。自分のものである。自分の本来の居場所なのでる。住宅ローンの抵当権なども付いていない。公園や駅にいながら、真理は別として、現実問題を何とかしなければ、、、このような想いこそ「消えてゆく姿」なのである。『今あなたがたとえ不幸の最中にあって喘いでいたとしても』(01-11)、現実問題はさておき、幸せなマイホーム(神意識)に戻ったつもりで、自分の望む状況を思い描くのである。あるいは、言葉で語ってみるのである。マイホームの幸せな状況、完璧な状態はあなたの願望、望み、理想を通して想像することができる。そこに意識を集中するのである。

『人間は誰でも自らの意識(願望)によって、自らの望むような環境や状況、状態をつくり上げ、変化させることができるのである。』(01-05)
 現実世界の努力に、イメージ、言霊、印の実現力が加われば、必ず神性は顕現するのである。神性が顕現するところ、すべては完璧であり、欠けたるものはない。『この世にはびこる果てしない不幸や苦悩や悲惨、絶望のただ中に生きていてさえも』(01-11)、『“本来の自分とは、無限なる愛、無限なる叡智、無限なる幸せ、無限なる健康、無限なる能力に溢れているものである”という真理を前提として、自分自身に真理の言葉を語りかけてゆくのである。』(01-11)。
 マイホーム即ち内なる神性の存在は目には見えない。しかし、その存在は我即神也の真理によって明らかにされている。『今現在置かれている立場がたとえ幸せでない状況にあっても』、自分が『いかに豊かで、幸せで、崇高であるかを語ることが出来る』。自分は『いかに健康で、愛深く、真理そのものであるかを』、自分は『いかに素晴らしく、叡智に輝き、無限なる能力を保持しているかを語ることが出来る』(01-11)。
 我即神也のイメージトレーニング、我即神也を前提とした語りかけ、あるいは宣言に神性復活目覚めの印の実現力が加われば、内なる神性の宝庫は解き放たれるのである。つまり、マイホームに居たことに気づくのである。          

48-3   想像力11 恋する想像力

48-3   想像力11 恋する想像力
① 『要するに、人類は、自分自身に関して余りにも無知なのである。
 自分の心に潜む低次元の自我意識こそが問題なのである。
 みな自分自身を偏愛し、自分自身と恋に落ちているのである。
 苦悩の原点はすべて自分にある。
 この自我を消滅させ、解き放つことが他者との共生、大自然との共生の始まりである。』(03-09)
 無知とは「我即神也」の忘却である。人類は、我の真実の姿が神であることを見失ってしまった。肉体と想念は時間軸に従って履歴を連ねて行く。自我はその履歴こそが自分だ自分だと叫びつづけた。履歴を想い出し、恐怖と不安の中で、自己を守ろうとした。自己保存の必要性に駆り立てられた。——これが自我の自分自身への偏愛でる。自我は自分自身と恋に落ちたのである。この自我の想いは、歪んだ想像力の結果である。この想像力は無知と不安と恐怖、自己保存に基づいている。

② 『人間は人類愛に目覚めなければならない。人間は本来神の子である。神の子完全円満なる姿にひきつけられ、恋いこがれるのが当然なのである。』(91-04)
 人間には自分が神である姿にひきつけられる本性がある。若者達が自然に恋するように、人間は自分の神体、霊体、本心の姿に恋いこがれるのが当然なのである。
 自我との恋が日常的になっているかもしれない。三次元世界では、そうせざるを得なかった。しかし、今日富士聖地は四次元世界を通過し、五次元世界に入ったのである。そうなると、『自分自身が神性そのものであるということをふっと思い出す、思い出さざるを得ない』(16-09)。自我の愛は消え去るのである。そして、神我への愛を禁じ得なくなってくるのである。恋いこがれるとは、ひと時も頭から離れないということである。眼にはみえない。されど、自分が神である姿を想像し始めると、時間を忘れてしまう。恋心は想像力を掻き立てる。気がつけば、自分が神である姿を思い描いている。このように、人類一人一人が、我即神也の姿に恋いこがれる時代になって来るである。その先鞭をつけるのが神人である。
 想像力の切り替えについて、瀬木元理事長は会長直伝のイメージトレーニングを次のように紹介されている。神性復活の印を組む前の、イメージ作りの参考にしてください。
『私はすべての肉体波動を消滅し、神界の(光となり)神の器となった』(1 )
『私の器を神に捧げます。この器を通して神の無限なるものすべて一切が、この肉体に表われますように』(2)
 こういう気持ちで祈りなさいと言われたそうだ。イメージ作りが不得手な方は、祈るときの気持ちを整えることを考えればいい。イメージは自然についてくる。
(1)84/05/26直伝(2)93/04/25直伝   出典 瀬木庸介著「夜明けはもう近い」p182-183                          
プロフィール

富士山直行

Author:富士山直行
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR